西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「神に対する傲慢」◇

2013年5月5日

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ルカによる福音書18の9〜14

 この前の箇所には、熱心に祈り続けることの大切さ、つまり必死に祈り続けるなら神さまはその祈りを必ず聞いて下さらないはずはない、という事が記されていた。今日のところは、その祈りはどのような祈りになるのか、特に7節に叫び求めるという言葉があるが、それはいかなる祈りなのか、ということが述べられている。
 まず9節でルカが、今日の箇所の主題ともいうべき言葉を書いている。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、主イエスは次のようなたとえをもって、語りかけられました」ということである。「うぬぼれて」と訳してあることば「自任」すると口語訳では訳している。自分を信頼する、自分に確信を持っているという意味である。そこからうぬぼれが出てくる。そうすると人を見下すようになるわけである。
 それに対して、主イエスは2人の祈りを対照させて語られる。1人はファリサイ派の人でもう1人は徴税人である。
 まずファリサイ派の人は、心の中で祈った。まず自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でない、ことを感謝している。これは十戒の7.姦淫するなかれ、9,いつわりの証しを立つるなかれ、10.むさぼるなかれ、この3つ(8.盗むなかれも含めていい)を犯していない、ということ。
 さらにそれだけでなくもっと積極的に、週に2度断食する。月と木だそうである。普通には年に1度第7の月の10日に断食するようにとレビ記16の29には定められている。罪を贖うための清めの苦行。それよりはるかに多い。
 それから全収入の十分の一を献げている。これも申命記14の22−23には穀物、オリーブ油、ぶどう酒の十分の一をささげるよう定められている。がファリサイ派の人たちは自分たちが買い物をした時もその十分の一を献げたとのことである。そのようなことを行っています。といって神様に申告している。恐らく感謝のつもりであろう。しかし、これは感謝の祈りのようでそうではない。むしろ自分の善行や苦行を自慢している。誇っている。まさに先程の「うぬぼれ」であり、自己信頼、自己義認である。しかも「他の人たちのように」とある。他の人たちのようにモーセの十戒を破るようなことはしていないし、他の人々の到底できない善行や苦行を実践している。と、他人との比較において自分ははるかに優れている。そういう優越感を心の中に持っている。まさに他人を見下しているのである。高慢になっている。そしてそれを感謝すると言いながら、実は神に対して誇っている。これは、他人に対して高慢になっているだけでなく、同時に神さまに対して傲慢になっている姿である。
 しかし、これはファリサイ派の人たちだけの問題であろうか。ルカの時代の教会にもあったことである。また、今日の教会でも起こりうる。特に熱心な信仰を持ち、忠実な教会生活をしている人程,こうなり易い。(牧師が一番危険)
 神さまに祈るとき、他人と自分を比較して、自分をよしとし他人を見下す。それは逆の場合でも起こりうる、というのは次に出てくる徴税人は、自分の罪を認め、赦しと助けを求めているが、こういうような場合ですら、他人と自分を較べる。そして自分はこんなに罪深いと言って謙遜なのに、あの人は罪の自覚も足りないし、謙遜さも足りない。その点では私の方がより謙遜である。従ってよりましだ。これは謙遜なようにみえて、自分を誇り、他人を見下す。これも傲慢。傲慢な謙遜。本当に人間はどしがたい。常に他人と自分とを較べて、誇ってみたり、安心したり、逆に落ち込んだりする。妬んだりする。
 しかし、この徴税人はそうではない。自分の罪深さを心から悔いている。「遠く離れて」立ったのは聖なる神の前に立つことの恐ろしさを自覚していたからであり、「胸をたたいて」祈ったのは、悔い改めの心、自分の罪に対する悲しみのあらわれであった。この人は神さま以外は目に入らない、他の人を見て、自分と較べる余裕などない。「叫び求める」ようにして、ひたすら神さまに憐みを乞う。そのあり方が、神さまに最も近い、ということになるのである。
 そして義とされて家に帰ったのは、この徴税人の方であったというのである。
 純粋に神さまの前に、心から自分の罪を悔い、赦しと憐みを求めるのは難しい。どんな時でも、どんな場合でも心の中に人間的な思いが忍びこみ、いつのまにか、その思いに支配されてしまう。他人との比較において、自分の良い行い、正しい生き方に信をおく、あるいは逆に自分の罪をみとめる謙遜さを誇り、そして信をおく。だったら救いのために神は必要ない。感謝しますと言って祈っているけれど実は感謝してはいない、このファリサイ派の人の姿は見事にそのことを表している。どうしたらいいのか。

「打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」詩編51:19

 この詩編の御言葉通り、ただ神の前に謙遜して砕かれた思いをもって祈る者でありたい。

文:木下宣世牧師

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