西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「主よ、憐れみ給え」◇

2013年7月7日

「今月の説教」リストへ

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

ルカによる福音書18の35〜43

 ルカによる福音書の学びも段々と核心に近づいて来た。今、主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅を続けているのであるが、今日はエリコの町に入る道の途上でのできごとである。エリコからエルサレムの都まではあと1日で行ける距離であり、このあと、ルカ福音書ではエリコの町でのザアカイの物語とムナのたとえ話が続き、その次はエルサレム入城そして十字架・復活となるのである。
 その主イエスと弟子たちがエリコの町に近づいた時、道端で1人の盲人が坐って物乞いをしていた。マルコ福音書によるとこの人はティマイの子バルティマイという名であった。現代でも目が見えない人が生きていくのは非常な困難がある。特に職業は限られてくる。まして当時としては物乞いをするしか、食べていく道はなかった。そのことがこの人を精神的にも物質的にもどれ程苦しめてきたことか。又、この人は目が見えなかったためにどれ程悲哀や屈辱を味わったことか。想像に余りあるものがあった。
 ところがこの日、バルティマイは周囲にいつもとは異なる気配を感じた。時は過越の祭が近づいており、エリコを通ってエルサレムに上る参詣客は多かったであろう。バルティマイにとっては一年の内でもかせぎ時であった。しかし、それは唯多くの人が通って行くというのではないざわめき、というか、通例でないその場の空気を感じたのである。それで周りの人に「これは一体何事ですか」と尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」と教えられた。
 その途端彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」と叫び始めた。その時恐らく主イエスは歩きながら自分を囲んでついて来る弟子たちや他の人々に色々な教えを述べておられたのではないか。(当時ラビは歩きながら話す風習があった由。)その教えを聞きたくてかけ寄って行く人もいたであろう。それが先程のざわめきとか、いつもと違った空気を生み出していたと思われる。それを大きな声でわめき立てられたら邪魔なのである。うるさくて主イエスの言葉がよく聞こえなくなってしまう。
 そこで周りの人たちは怒って、彼を黙らせようと叱りつけた。しかし、彼はさらに大きな声で、主イエスに「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。彼がどうして主イエスと知るとすぐこのように叫び続けたのか?恐らく彼はすでに主イエスの噂を聞いていたのであろう。そして主イエスが病気をいやし、悪霊も追い出すことのできる人であることを知っていたのであろう。だから彼はこの方なら私の目をいやしてくれるに違いないと思って必死に叫び求めたのである。他の人が何と言おうとそんなことは彼の耳に入らなかった。ついにその声が主イエスに届いた。主イエスは彼を自分のそばに連れてこさせ、「何をして欲しいのか」と尋ねた。
 この「何をして欲しいのか」という問いも不思議な気がするかも知れない。主イエスだったらもう彼が何を求めているかご存知のはずではないか、と思うからである。これは主イエスが彼自身の口から彼が何を求めているかはっきりと言い表わさせるために尋ねたのだとよく説明される。確かにそれは大切だと思う。美しの門で生まれながら足のきかない人がやはり物乞いをしていたが、ペテロとヨハネが来た時、彼はお金を恵んでもらうことしか考えていなかった。まさか自分の足で立てるようにしてもらえるとは思ってもみなかったからである。主イエスに何を求めるのかは大切である。バルティマイは即座に「目が見えるようになりたいのです」と答えた。それで主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。するとたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながらイエスに従ったのである。
 今回のこのお話を読んで感じたことは、バルティマイと主イエスの距離のこと。40節「そば」「近づく」「従う」=遠くはなれないということ。つまり、始め主イエスは遠くから彼に近づいてくる。そしてそのままにしておけば彼のそばをすれ違って遠くに去っていくだけだった。接点もなければ交差することもない。無関係のまま。それを彼は必死に呼び止めた。するとイエスは通りすぎずに立ち止まられた。そして彼をそばに連れてこさせた。そして彼は近づいて2人は面と面とを合わせて向きあい、言葉を交わす。出会った。交差したのである。そして「主よ」「見えるようにして下さい」と願った。「ダビデの子よ」と呼びかけた。これはメシヤ(救い主)への称号である。彼は主イエスは救い主だ、メシヤだ、主だと信じて呼びかけた。この人なら私をいやして下さる、否この人しか自分をいやしてくれる人はいない、と思った。だから誰に止められても聞かずに主イエスに叫び続けた。これが主イエスの言われた「あなたの信仰」である。11章8節「しつように頼む」18章1節「気を落とさずに絶えず祈る」ように教えられた主イエスの教え通りである。
 バルティマイの目が開かれて最初に見たものは何であっただろうか。恐らく、主イエスの姿、そのお顔であった。
 その時、つまり目が見えるようになった時の第1声は何であっただろうか。神をほめたたえる言葉であった。
 そして、その次に彼は主イエスに従った。これがまず最初に彼の取った行動である。これは彼の証しそのものである。「この方こそ、確かに私たちのために神が遣わして下さった救い主である。イザヤ書に預言されているように、この方はわたしの目を見えるようにして下さった。(4章18節,7章22節)」そのようにバルティマイは証したことになるのである。
 そこで「これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」のである。直前の弟子たち(18章12節)と何と対照的であることか。彼らは主イエスの言葉の意味が何もわからなかった。隠されていたからである。
 バルティマイは目が開かれて、主イエス、ナザレのイエスこそ救い主と証しし、賛美する。
 私たちも彼のような信仰を与えられ、主イエスを証しすることのできる者とされたい。

文:木下宣世牧師

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