西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「賜物を生かして」◇

2013年7月21日

「今月の説教」リストへ

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

ルカによる福音書19の11−27

 9章51節からいわゆる主イエスのエルサレムへの旅の記事が始まったのであるが、今日はその最後の場面にあたる。次はいよいよ主イエスのエルサレム入城である。
 そこで主イエスはムナのたとえを語られる。この話は小見出しの下にも記されているようにマタイ25章におけるタラントンの話と良く似ている。しかし、相違も幾つかある。その中でも最も大きな違いは、何を強調しようとしているか、という点にある。
 それは、物語の始めのところに既に表れている。
 11節の後半、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」。この言葉がこのたとえ話を主イエスが語った理由を示している。当時主イエスの周囲にいた人々は弟子たちを始め、主イエスがガリラヤからの旅を終えて、エルサレムの都に入ったら、これまで示された数々の奇跡を起こす力を振るってたちまち権力者たちを追い払って、ご自分が王となって、この国を支配して下さるのではないかと期待していた。前の章の28節でペトロが「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言ったのも、言外に、だから主イエスが、エルサレムに入ったあかつきには、自分たちにそれなりの報償を授けて頂けるのでしょうね、といった願望がかくされているように思われるし、他の福音書ではヤコブやヨハネが、主イエスが栄光を受けた時は、私たちの1人を右に、1人を左に坐らせて下さい、というはっきりした願い出をしている。
 彼らはそういう期待をこめて、もうすぐ神の国が実現するものと思っていたのである。そのような人々の間違った期待を正すために主イエスはムナのたとえを語ったのである。
 ここである人が、王位を受けるために遠い国に旅に出た、とあるがこれは主イエスご自身のことである。けれども、それを当時の人々に良く知られている歴史的な事実にからめて語っている。その歴史的な事実というのは、ヘロデ大王の息子アルケラオがその後を継いで王となろうとして、ローマ皇帝のお墨付をもらうためにローマに行った。ところがユダヤ人の代表がそのあとローマに行ってアルケラオを王としないでほしい、と嘆願した。14節にある通りである。結局アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤの3地方の領主となることを許されて帰ってくる。そしてユダヤに帰ってきた時、自分に反対する嘆願をした人たちを殺害した、ということである。この出来事を主イエスは応用した。
 ご自分も、このあと十字架、復活、そして昇天して天に帰る。しかし、やがて終末の日に王として再臨し、審判を行う。そのとき、自分を救い主として認めようとしないユダヤ人たちは、最後の審判において滅びへと定められる、というのである。
 こういう風にして、主イエスがエルサレムに入城したらすぐに神の国が現われると考えていた人々に対して、主イエスはそうではない、ということを語られた。
 そして、その枠の中で、ではその再臨の時までどういう生き方をすべきなのか、ということをムナの話で教えられたのである。ここからは弟子たちの問題となる、と思う。そしてさらに言えば私たちの問題となる、と言ってよい。ここではマタイ福音書のタラントンの場合と異なり10人の僕に10ムナを渡して、これで商売をしなさい、と命じた。そうすると、10人は1ムナづつ平等に分けた。これは、教会に使命を与えたと理解してよいのではないか。そして1人1人は同じ使命を担うということ。タラントンの場合はそれぞれの能力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンとの違いがあった。しかし、ここでは皆1ムナづつ分けあった、ということは、使命の価値はみな同じだという意味である。イエス・キリストを通して神から与えられた恵みは同じ。(ぶどう園のたとえ)そして、この人が王位を得て帰ってきた時、皆がどれだけ利益をあげたか報告させた。最初の人は10ムナもうけた。すると10の町を与えた。1ムナは3ケ月分の所得、タラントンの60分の1、だからそれ程多額ではない。それに対して10の町というのは大変な報償だと思う。2番目の人は5ムナもうけ、5つの町をまかされる。これも大きい。ところが3番目の人は、御主人の厳しさを理由に何もしなかった言い訳をする。責任転嫁、自己正当化である。それに対して、自分がそういう過酷な人間だと知っていたのなら、銀行に預けておけば、利息が入ったであろうに、と言ってその人の1ムナを10ムナもうけた人に渡しなさい、という。それはかわいそうではないか、もう既に10ムナも持っている人に1ムナしか持っていない人から取り上げて、さらに1ムナをあげるとは、と僕たちが言うと、26節「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と主人は言った、というのである。これは主イエスらしくないと思われるかも知れない。しかし、信仰生活においては確かにこういうことが言える。バークレー「クリスチャンの歩みには静止の状態というものはない。もっと多くを得るか、持っているものまで失うか、そのいずれかである」確かにその通りである。信仰は成長するか、もしくは低下するかのどちらかのような気がする。
 私たちの使命は与えられた恵みをどれだけ証しし、又他の人にお分かちするかにある。ルカ8章の18節(P118)には今日のところと同じ言葉が主イエスご自身の口から語られている。「注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。しかしその前の16節には「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。」とある。
 ともし火は恵みのことではないか。私たちは恵みによって生かされている。その恵みを隠したり、ふせたりしてあらわさないことはあってはならない。主が再び来たり給う日に備えて、励む者でありたい。
 

文:木下宣世牧師

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