西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「神の訪れを拒むのか」◇

2013年8月4日

「今月の説教」リストへ

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

ルカによる福音書19の41−48

 先週は主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城される場面を読んだ。しかし、あの時点ではろばの子に乗ってオリーブ山の下り坂にさしかかったところであってまだ、エルサレム市街には入っておられない。
 今日の45節のところで初めてエルサレム市内の場面となるのである。オリーブ山の下り坂にさしかかればキドロンの谷をはさんでエルサレムの町は目の前である。そのとき主イエスはその都のために泣かれた、というのである。聖書の中で主イエスが泣かれた場面は少ない。私たちが知っているのはヨハネ11章のラザロの復活のところである。その時主イエスは兄弟ラザロが亡くなってマリアが泣き、回りの人たちももらい泣きしている様子をご覧になって「涙を流された」。
 しかし、ここで泣かれたのは声をあげて泣かれたという言葉である。
 これはめずらしい。恐らくここだけであろう。
 どうして、これ程までに感情をあらわにして泣かれたのだろうか。そのことを考えるために、ここと非常に良く似た箇所がルカ13:34にあるので見てみたい。ここでも主イエスはエルサレムのために嘆いておられる。これまで何度も何度もおまえたちを翼の下に集めようとしたのに、おまえたちは預言者や、自分に遣わされてきた人々を石で打ち殺してしまった。どうして、お前たちに対する神さまの愛を拒むのかと嘆かれた。しかし、その時に、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言われ、自分はそれでもあのエルサレムに行く、と決意を述べておられる。
 そして今、そのエルサレムに来たのである。しかし、エルサレムの人々が自分を受け入れてはくれないであろうことを知っておられた。これまで預言者や神さまがエルサレムのために遣わして下さった人々を殺してしまったように、主イエスのことも、拒絶するであろうことを知っておられた。それが「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし、今はそれがお前には見えない。」と言われた意味である。それと同じ意味のことをもう1度言っておられる。44節後半の「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」という言葉である。両方共に「わきまえる」という言葉が用いられている。「知る」という言葉である。「平和への道を知る」ということと「神の訪れてくださる時を知る」ということは同じであるということである。今、主イエスキリストがろばの子に乗って平和の王としてエルサレムに入って来ようとしている。これは神が救い主を遣わして、人々の罪を救おうとしている。つまり、神の救いの訪れである。即ち神が訪れてくださったのだ。しかし、それがわからない。彼らにはそのことが隠されているからである。
 そのようにわきまえのない、神さまのみ業に無知なエルサレムの人々は主イエスを受け入れようとしない。神の訪れを拒む。その結果はエルサレムの悲惨な滅亡である。そしてこの預言はその通りA.D.70年に実現してしまった。
 主はそのことを予知しておられた。慟哭せざるを得なかったのである。
 今日は日本キリスト教団の定めた平和聖日である。8月はあの悲惨な戦争を想起し平和を求めて祈る月である。今日のみ言葉は平和について大切なことを教えてくれている。それは、主イエスを救い主として受け入れることが平和への道である、ということである。どうしてか。
 平和問題は政治・社会の問題でイエス・キリストへの信仰とは関係がないのではないか、と思われるかも知れない。しかし、私たちの心が罪に捕らわれている時に、本当の平和は来ない。私たちの心に憎しみ、悪意、自己中心性、ごう慢,他者への不信、あくなき欲望等々が巣食っている限り、人間同士の争いも国同士の争いも絶えることはない。主イエス・キリストの贖いによって罪を赦され、恵みによって生かされない限り平和は来ない。そのことはよくわきまえておかねばならない。
 そのためにはどうしたらよいのか。神の訪れであるイエス・キリストを受け入れることである。主イエスは次のところで宮潔めをしておられる。ルカ福音書はマルコ・マタイに比べて非常に簡潔に書いている。唯、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と強調している。そして、神殿の外庭から商売人たちを追い出し、「毎日境内で教えておられた」とある。これは示唆に富んでいる。つまり、私たち自身が神殿であると把えるのである。コリントの信徒への手紙T、3:16「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 」神殿である私たちは、この世のことに心奪われ、世俗的なことで思いがいっぱいになっている。それを皆取り払って、主イエスに明け渡す。祈りの家とする。主イエスに語って頂く。そういう生き方をする。そうするとそこから平和への道が開けていく。
 私たちは折角神が差し伸べて下さっている救いの手を拒んではならない。救い主イエス・キリストを受け入れ、平和への道を歩ませて頂きたい。

文:木下宣世牧師

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