西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「愛する息子をつかわそう」◇

2013年9月1日

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 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

ルカによる福音書20の9〜19

 このたとえ話はルカ福音書に於ける主イエスの最後のたとえ話である。この最後のたとえ話で主イエスは、私たちの世に愛する一人息子であるイエス・キリストを遣わしてくださった神さまの御心を示して下さっている。
 このたとえ話のぶどう園で行った出来事の推移については説明する必要ないであろう。このようなぶどう園の持主が農夫に作物の世話や収穫を委託して、自分は遠くの地に住むという例はBC.3世紀プトレオマイオス王の頃から始まったそうで、当時はめずらしいことではなかったということである。
 この場合の主人は神さま、ぶどう園はイスラエルの民、農夫はその指導者たちを表わしている。ぶどう畑がイスラエルを指すということはイザヤ書5章1節〜2節の言葉にもとづいており、マタイ21章の33節〜46節の平行記事をみると、その最初の部分がイザヤ書の書き方とよく似ている。
 主人が収穫の頃にその分け前をもらいに遣わした僕たちは預言者を表している。「ある人がぶどう園を作り」とあるように、神さまはイスラエルの民を選び、約束の地に導き入れ、神の民として生きる条件を整えてこられた。あとは民の指導者たちに委ね、彼らの自由な裁量にまかされたのである。
 そして、時期が来ると預言者を、神の民の信仰の果実を収穫としてもらいに遣わすと、農夫たちは預言者に収穫の分け前を渡すどころか袋だたきにして追い返した。ルカ13章の34節にある通りである。2人目は袋だたきにした上さらに侮辱を加えて追い返した。そして3人目は傷を負わせてほうり出す始末であった。
 このようなことをされたら普通だったら1人目の時にすでに持主は農夫たちを罰していたであろう。あるいは追放したかも知れない。
 しかし、この主人は忍耐強く、2人目、そして3人目を遣わしたのである。それなのに農夫たちはそのような主人の温情に応えることなく次々と遣わされてくる僕たちをひどい目に合わせて追い返してしまった。
 そこでこの主人はどうしたか。とうとう堪忍袋の緒が切れて、農夫たちを追い出したのか、というとそうではない。考えられないようなことを言い出した。自分の愛する息子だったら敬まってくれるだろうから彼を遣わそうというのである。これはどう考えても甘い。余りにも無防備、無警戒すぎる。驚く程、思慮がなさすぎると言わざるを得ない。
 しかし、この主人は神さまを表しているのである。神さまという方はそんなに愚かなのだろうか。思慮のない方なのであろうか。そうではない。もし、これが神さまなのだとしたら、単なる無思慮で一人息子を送ったのではあるまい。私は、ここに神さまのイスラエルに対する、或いは人間に対する信頼や期待があるのではないかと思う。神さまはこれまで農夫たちが送り出した自分の僕に対してなしてきた乱暴な仕打ちや自分との約束を守らない不誠実を充分ご存知であった。だから息子を遣わすことがどんなに危険なことかも承知しておられた。主イエスが弟子たちを伝道に遣わすとき、羊を狼の中に遣わすようなものだと言われたが、神さまも、その危険性は十分わきまえておられたに違いない。
 しかし、神さまは農夫たちを狼とは思われなかった。やはり人間なのである。ご自分の手でご自分にかたどって作られた人間である。そこに賭けられた。「多分敬ってくれるだろう」という言葉はいかにもあっさりしていてそんな甘いものじゃない、という感じを受けるのだが、これは神さまの賭けであり、冒険であり、大いなる捨身の決断である。その根拠は人間への信頼と期待である。
 神さまがイエスさまをこの世に遣わして下さったのは、そのような神の決断があった、ということを忘れてはならない。だとしたら私たち人間も、それに応えるべきではなかろうか。ところが農夫たちは違った。この跡取りを亡き者にすればぶどう園は相続人を失って自分たちのものになるかも知れない、と考えた。ここに罪がある。ぶどう園を自分たちのものとするという貪りの罪がまず考えられるが、さらに言えば自分が主人になる、つまり自分が神になるという自己神格化の罪である。その罪が、神の独り子を殺すという結果を生み出した。その後のところは、神が農夫らを殺してぶどう園をほかの人たちに与えるに違いないと言われたのに対し、そんなことがあってはなりませんと民衆が言ったとある。農夫たちに対する厳しい裁きと、古いイスラエルから新しいイスラエルへの移行ということである。それが、その次の部分に記されている。家を建てる者の捨てた石、これは主イエスの十字架を表す。それが隅の親石となるは復活である。そしてこの親石の上に新しいイスラエル、つまり教会が建てられると考えられた。
 使徒言行録4の10〜12
 エフェソの信徒への手紙2の19〜22
 ペトロの手紙1 2の4〜8
 もう一度元に戻るようであるが、私たちがイエス・キリストを救い主として信ずる、ということは決断を要する。これから洗礼をうけてキリスト者として生きるということは、やはり重大な覚悟をきめなければできない。
 しかし、実は、私たちがその決断をする前に神の方がまず独り子を救い主としてこの世に遣わすという大いなる決断があった。その決断に応えて、私たちも決断をするということが信仰なのではないか。神の決断は人間への愛、人間への信頼、期待があるのではないか。そうでなければ、神は独り子を送っては下さらないのではないか。その愛に応えて私たちも決断する。そのことが求められている。応える者となりたい。

文:木下宣世牧師

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