西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「弱さの恵み」◇

2013年9月29日

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 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

コリントの信徒への手紙U 12章1節〜10節

 本日は教会全体修養会である。礼拝に引き続いて「かぞえてみよ しゅのめぐみ」という主題のもとに皆で話し合い、恵みを分かちあうこととなっている。今朝のこの説教はそのための発題としての役割も持っている。また本日の修養会の主題は、今年の年間主題聖句から取られたものである。そこで、その聖句が記されている詩編103編も先程読んで頂いた。そして唯今お読みしたパウロの手紙などを通して私たちに与えられている恵みについて共に御言葉から学びたい。
 まず、私たちにとって神さまの恵みの内最大のものは何か。詩編103編を見ると、神の御計らいが、3節以下のところに出てくる。ここでうたわれている神は、8節にあるように「憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい」そういう神である。その神が人間に与えて下さる最も大きな恵みは「罪の赦し」である。3節「お前の罪をことごとく赦し」、10節「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく」12節「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と、繰り返し罪の赦しということを挙げている。つまり、この詩編は慈愛に富み給う神の恵みはまず何に向けられるかというとそれは罪を赦して下さるということだというのである。これは重要な事だと思う。
 この「罪の赦し」という事柄は聖書の旧約から新約を貫いて語られ、これが私たちの救いであることを証ししている。勿論、まだキリストが出現する前なので、「罪の赦し」はこの段階ではまだ、どのようにして赦されるのかという具体的なところまでは行っていない。しかし、旧約聖書の段階で、神の恵みの根本は罪の赦しにあると指摘してくれていることは貴重な点である。よく言われるように旧約聖書における神の祝福や恵みは子どもが沢山与えられ、子孫が増えることとか、富を豊かに与えられることとか、長寿を全うするとか、かなりこの世的具体的な事が数えられている。それに比べここでは病気のいやしとか虐げられている人の援助ということも出ているが、やはり神の恵みの中心は罪の赦しにあると指摘しており、これは注目すべきことである。これが新約聖書に行くと、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪は赦された、というように具体的に罪の赦しが述べられる。
 私たちにとって、何と言ってもこの罪の赦し、あるいは罪からの解放が最も大きな恵みであり、神の恵みの源というか、ベースというか、始めであり、終りなのである。その上に立って様々な具体的な恵みが来る。数え切れない程多くの豊かな恵みにあずかっている。
 今日は、そのことを皆で証し合い、分かち合おうというのである。その時に気を付けなければならないのは、私たちは既に究極的な恵み、つまり罪の赦し、救いが与えられているということを明確にわきまえておくということである。
 そうでないと、神の恵みを単なる幸福主義的な、あるいは御利益的なものとしてしまうことになる。先程の旧約時代のように、富が与えられた。社会的な地位にも恵まれた。仕事もうまくいき、出世もした。家族にも恵まれ、友人も多く与えられ、病気もせず、事故にも会わず、等々。勿論これらも恵みに違いない。しかし、病気になったらどうなるのか。貧しかったら恵みはないのか、今挙げたようなことに反する目に会ったらダメなのか。だとしたら、主イエスの十字架がどこかへ吹きとんでいってしまう。
 その時「わたしの恵みはあなたに十分である」という御言葉が浮かんできた。パウロの身には一つのとげがあった。病気だっただろうと言われている。そのとげが彼の伝道活動の妨げとなった。また、彼を苦しめた。そこでパウロはそのとげを取り去って下さいと三度も祈った。
 とげがあるということはパウロの弱味であった。マイナス点であった。到底恵みとは思えなかった。ところが、「恵みは十分だよ」と言われてしまった。そして「私の力はあなたの弱さの中でこそ発揮される」と述べられた。このとげはパウロが思い上がらぬために与えられたものであった。このとげがなかったら多くの才能に恵まれていたパウロは思い上がって人に対しても、神に対しても傲慢になり、あれ程の伝道者にはなれなかった。自分の能力が邪魔をして、神さまが力を発揮する場面をなくしてしまったであろうからである。だからむしろ弱い時にこそ強いという逆説が成り立つ。弱さこそ恵みと言うことができる。過日高齢感謝礼拝の時に満75才を迎えた方々に水野源三さんの詩集を贈った。あの方は目が見え、耳が聞こえるだけで、体が思うように動かない。わずかにまばたきができたので、それで1字1字 字を示して詩を作られた。「まばたきの詩人」と言われた由縁である。この世的に見たらこんな可哀想な不幸な人はいない。神さまの恵みからは最も遠い人と言われたであろう。しかし、訪れてきた宮尾隆邦牧師によって信仰を与えられ、あのすばらしい信仰の詩を作り、多くの人に希望と力を与えた。その詩の一つに「苦しまなかったら」がある。
 「もしも私が苦しまなかったら
  神さまの愛を知らなかった
  もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
  神様の愛は伝えられなかった
  もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
  神さまの愛はあらわれなかった」
 まさに、自分の力では生きることさえできない弱さが水野さんを神さまの救いに導いたのである。神の御計らいの不思議さ、深さに心打たれる思いである。神さまの恵みを深くとらえることのできる者でありたい。

文:木下宣世牧師

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