西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「終末への心得」◇

2014年2月2日

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 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

ルカによる福音書21の5−19

 主イエスが活動しておられた当時のエルサレム神殿は確かに壮麗な建造物であったようである。ヘロデ大王が長年にわたって修理したと言われているが、正面入口には12mもある白い大理石の継ぎ目なしの柱が立っていた。そして金の板で正面部分はおおわれていて朝日がのぼるとまばゆく照り輝く程であった。又最も有名な奉納物はヘロデ大王が寄進した純金でできた大きなぶどうの木でその房は人間の背丈ほどもあったと言われている。(ヨセフス、「ユダヤ戦記」)
 本日の冒頭のところに「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られているのを話していると」とあるが、恐らくその立派さに感嘆の声をあげていたのだと思われる。
 しかし、それに対して主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われたのである。徹底的な破壊の予告である。確かにA.D.70年にエルサレムの町はローマ軍の侵攻によって滅ぼされ神殿は完全に崩壊させられたのである。
 これは当時のイスラエルの人々にとっては殆ど全くと言ってよい程考えられない言葉であった。こんなに立派で大きく、美しい建物、しかもここには神が御臨在下さっている聖なる神殿が崩れ去るとは想像できないことであった。彼らにとっては神殿はほぼ信仰の対象であったとさえ言えよう。だからこの後主イエスが捕えられた時、敵方が訴えた材料は神殿をこわして、3日で建てると言ったということであった。これは神を冒涜する言葉として受け取られたのである。
 それと同時にこれは(神殿が崩壊するということ)終末の預言でもあった。自分たちが信仰の拠りどころとしているこの神殿が失くなるということは、この世の終わりの出来事だと考えられたのである。
 そこで彼らは、そのことがいつ起こるのか、またその時にはどんな前兆があるのかと尋ねた。ところが主イエスはその質問に直接お答えにはなられなかった。つまり、いつかということについては、すぐには来ない、というのが結論である。だから色々なことを言って動揺させる者たちが表われるだろうが惑わされないように、又そういう者たちについて行かないように、警告され、そして戦争とか争乱のことを聞いてもおびえることはない、と言われたのである。
 しかし、前兆についてはその次に語っておられる。民族間、国家間の対立、地震、飢餓、疫病(これらは終末に際して起こる3点セットである)又天変地異、こういう事柄がその前兆として起こる。これが質問に対する主イエスの一応の答えである。しかし、主イエスはさらに言葉をついで次のようなことを語られた。
 それは12節以下のことで、これまで述べられた前兆が起こる前に信仰者たちへの迫害があるというのである。会堂や牢に引き渡したり、王や総督の前に引っぱって行く、ということである。これらは今後主イエスを救い主として信じる者たちが受けるであろう苦難のことである。そして、使徒言行録を見ると、この通りのことが起こっている。
 ペテロとヨハネ、パウロとシラスは牢に。又ペテロ、ヨハネは議会に呼び出されている。ゼベダイの子ヤコブは領主ヘロデ・アンテイパスに殺され、ステファノも石打ちの刑にあって同胞のユダヤ人に殺された。パウロもカイザリアに連行された時アグリッパ王や総督フェリクスとフェストウスの前に立たされている。
 ところが主イエスはそのような迫害や苦難が証しのチャンスとなる、と言われるのである。何故かと言うと、王にせよ、総督にせよ、或いは議会にせよ、引き出された時、誰も対抗も反論も出来ないような知恵と語るべき言葉とを、わたし(つまり主イエス)が授けるからである。だからあなたがたは弁明の準備をするまいと心に決めなさい、というわけである。事実その通りになった。議会で審問された時のペトロの堂々たる主張やステファノの場合も彼が知恵と霊によって語るので議論する者たちは歯が立たなかった、とある。(使徒6の10)パウロもアグリッパ王に逆に主イエスを信じるように迫る程で、立場が逆転してしまっている。また2人の総督の訊問を受けても一歩もひけを取らなかった。
 そして16節にはさらに「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17節また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と一層厳しい情況におかれることが語られている。「わたしの名のために」とあるが、確かに、私たちもこの日本の社会にあって、イエス・キリストを信じたために、周囲の身近な人たちからさえ、反対を受けたり、疎外されたり、迫害されることさえある。しかし、18節には「しかし、あなたの髪の毛の一本も決してなくならない」とある。これは、完全に守られる、何一つ失うことがないということである。ダニエルの3人の仲間が燃えさかる炉の中に投げ込まれたが髪の毛もこげなかったという話を想い出させる言葉である。(ダニエル3の27)
 16節で「中には殺される者もいる」と言われたのに、ここでは髪の毛一本も失われない、とはどういうことか。
 考えてみると、主イエス自身がここに預言されている迫害や苦難に会われたのである。これまでも数多く祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々から非難され、質問を受け、議論もしてきた。そしてこれから逮捕され、ユダヤ人たちの裁判に会い、ピラトにも裁かれる、ヘロデからも尋問される、そして弟子たちからも裏切られ、十字架の死をとげられる。まさにここに書いてある通りである。
それによって、私たちの罪は贖われ、私たちは神の救いに与った。永遠の命を授けられ、御国の世嗣とされたのである。私たちは主イエスの十字架と復活によって、死から命へ、闇から光へ、決定的に転換させられたのである。髪の毛一本も失われないというのはこのキリストにより与えられる完全な救い、全き平安ということではないか。
 19節の「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」という勧めは、決して私たちの人間的な忍耐力で、自分でがんばって命をかち取れ、と言っているのではなく、主イエスが既に救いを与えて下さったのだから、信仰を貫いて命を受けよ、と言っておられるのである。
 ローマ8の38〜39に、死も、支配するものも、他のどんな被造物もわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです、とある。死でさえも主の十字架によって示された神の愛から、わたしたちを引き離せないのである。
 この信仰が迫害の嵐、死の迫る時も私たちに平安を与えてくれる。そして結局はこの信仰が終末への備えにもなるのである。
 

文:木下宣世牧師

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