西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「ユダの中にサタンが入った」◇

2014年3月2日

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さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

ルカによる福音書22の1−13

 今週水曜日(3月5日)は「灰の水曜日」と呼ばれる日で、この日から主イエスの御受難を心に止めてすごす受難節(レント)に入る。
私たちの救いのために主イエスが十字架にかかり、苦しんで下さったこと、その十字架の死によって私たちの罪は贖われ、赦されたことを想い、悔い改めと感謝とをもってすごす期間である。私たちにとって、この日からイースター(主イエスの復活日)までの時期は一年でも最も大切な時である。
 この時に当たって私たちのルカ福音書の学びは丁度22章に入った。ここから23章の終りまでは主イエスが十字架におかかりになる日のことが、詳しくまた具体的に描かれている。イースター前にその終わりまで読み進めることは無理だが、今日からできるところまで学んで行きたい。
 今日のところはユダの裏切りと最後の晩餐の用意が行われることが記されている。主イエスの苦しみに入る前の導入の部分であるが、ここに早くも主イエスの十字架の意味が表されている。それは何かと言うと人間の罪とその罪を贖う主イエスの十字架の愛である。
 今日の1節から6節までの前半は人間の罪の姿が書き表わされており、後半の7節から13節までは、主イエスが十字架を前にして弟子たちと過越の食事を摂るための準備を進める様子が描かれている。
 前半部分の内容を一言でいうと主イエスの殺害準備の実行である。そのために12弟子の一人イスカリオテのユダが決定的な役割を演じている。祭司長や律法学者たちは既に主イエスの活動の初期から、その命をねらっていた。6章11節に「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書かれている。12弟子を選ぶ前のことである。彼らにとって主イエスは神の権威をもって民衆を教え導き、その心を捕えるので自分たちに与えられている宗教的・社会的権威をおびやかす邪魔者であった。彼らは聖書においては初めから主イエスの敵役であった。しかし、早くから主イエスを抹殺しようと思っていたのだが、さすがの彼らもうかつに手を出すことはできなかった。それは民衆が主イエスを支持していたからである。(19の47―48)(21の38)彼らは手づまり状態で困り抜いていたのである。そこにユダが現われて、彼らに協力を申し出た。主イエスの行動を一番良く知っている人が寝返ってこちら側についたのだから、これ程大きな助けはない。状況は一挙に打開された。彼らにはユダの方が救世主に見えたのではないか。大喜びである。ルカはユダが報賞金を求めてもいないのに彼らは礼金を払うことを決めたと書いている。
 ここに人間の罪が現われ出ている。祭司長、律法学者、神殿守衛長たちの罪。それは自分たちの権力、地位をおびやかす者は、その人が正しいことを主張していても、真理を語っていても、敵視し、受け入れられず、抹殺しようとする。与えられている権力や地位を利用して得る富、名誉、権威等々を失いたくないからである。これがどんなに社会をゆがめ、自分自身をも不幸にしていることか。
 ユダの罪はもっと深刻である。自分のことを信頼し、弟子として選び、寝食を共にしてきた恩師を裏切り、その命を敵方に売り渡してしまったのである。どうして彼はこのようなことをしたのか。神学者や文学の世界でも様々な解釈がなされている。しかしルカは唯、ユダの中にサタンが入った、と言うのみ。
 ここに人間の罪の現実がある。人間は内部に深淵を抱えている面がある。最も親しい者、最も信頼している者でも裏切る。アダムとエバの物語もそうである。闇の部分というか、悪魔的なものを持っている。まさにルカがユダにサタンが入ったと言う通りである。また、ここに人間の弱さも現れている。サタンの誘惑に対する弱さ・無力と言ってもよい。
 ルカ福音書では4章の荒野の誘惑のところからサタンが登場する。その後も度々出てくる。主イエスはサタンに打ち勝たれる。しかし、サタンに勝てるのは主イエスのみ。人間は弱い。この弱さも人間の罪である。だから主イエスは主の祈りの中に「我らを試みにあわせず悪より救い出し給え」と祈るよう教えておられるのである。
 このように前半においては人間の罪の有様が、生々しく赤裸々に描かれているのであるが、後半では、主イエスがペテロとヨハネの二人に過越の食事を用意するよう命じられたことが書かれてある。主イエスは弟子たちと最後の食事をすることを強く望まれた。8節の言葉は原文に忠実に訳すと「行って、私たちのために、私たちが食べられるように過越の用意をしなさい」と、「私たち」という言葉が繰り返されている。しかも、主みずから過越の準備を言い出しておられる。そしてそのあとの推移も面白い。前にエルサレムに入られる時の子ロバの調達と同じパターンで、行けばわかるとばかり、段取りができていて、かめを持った男に出会う(ことになっている)。そしたらそのあとに従って行くと一軒の家に入る。そしたら、その家の主人に「先生が弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこですか」と言えば用意された部屋を見せてくれる。だからその部屋に食事の支度をしなさい。
 これは要するに過越の食事、最後の晩餐と私が言っている食事は完全に主イエスの発案で、主イエスが主導して、主イエスが整えたものであった、ということを表している。何のためか。
 それは単に弟子たちとの別れを惜しんでそのような機会を設けようとされたのではない。ここで今日の聖餐式の原型となっているパンと杯の儀式を行い、それを通して十字架の意味を弟子たちに教えようとされたのである。主イエスの十字架の死は、主イエスが犠牲の小羊であられたことを教えるためである。(Tコリント5−7)
 このようにして、前半部分で示された人間のどうしようもない罪をこの主がかわりに背負い、犠牲の小羊として十字架にかかられるのだ、ということを教えてくれるのである。私たちの罪の深さを想い、その罪から救って下さる恵みをおぼえて感謝し、十字架の主イエスを仰ぎつつ歩む者となりたい。
 

文:木下宣世牧師

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