西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「主が祈っていてくださった」◇

2014年4月6日

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「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

ルカによる福音書22の31−38

 本日は2014年度第一回目の主日礼拝である。礼拝の中で聖餐式や役員就任式も行われる。新年度も教会の歩みが神の祝福と導きを受け、週毎に行われる礼拝が恵みに満ちたものとなるよう祈る。教会の暦では主の御受難を偲ぶレントの季節が深まってきた。来週は棕梠の主日、受難週を迎える。深い想いをもってこれからの日々を過ごしたいと願う。
 今日お読みした聖書の箇所はいわゆる最後の晩餐の終わりの部分である。主イエスは弟子たちにパンを裂いて与え、「これはわたしの体」であると言われ、杯を配って「これはわたしの血による新しい契約である」と述べられた。これから架かろうとする十字架の死の意味を教え、この十字架の死が人間の救いの徴であることを宣言されたのである。
 しかし、この厳粛な時に、この中から私を裏切る者が出てくると主イエスが言われると、たちまちその場は、それは誰かという争論の場となり、果てはこの中で誰が一番偉いかという議論が始まったというのである。
 するとその時主イエスがペトロに向かって「シモン、シモン、」と語りかけられた。サタンがあなたを信仰から離れさせようと誘惑することを神さまに願って、聞き入れられましたよ、と言われるのである。これは旧約聖書のヨブ記と同じ発想である。ヨブ記でも信仰深いヨブを神さまから切り離そうとヨブに試練を与えたのはサタンであり、サタンは神の許しを得てヨブを苦しめた。つまり、私たちの信仰に揺さぶりをかけ、私たちの神さまやイエスさまへの信仰を弱らせたり、疑問を抱かせたり、つまづかせたりして、私たちと神さまやイエスさまとのつながりを絶ち切らせようとするのはサタンの働きである、という考えである。
 しかし、イエスさまはすぐに、でも私はあなたの信仰がなくならないように祈ったので、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさいとおっしゃった。
 これに対してペトロは憤然として、「とんでもない、主よ、私は牢に入れられても、死んでも、あなたから離れません」と誓ったのである。
 しかし、主イエスは「明朝までにあなたは三度私を知らないと言うだろう」と予告された。そしてこの予告はその通りになってしまったのである。
 次の段落(35節―38節)はルカ福音書のみ記しているところで他の福音書にはない。そして、謎めいていて理解するのが難しい。というのは何故ここでは、以前と違って、財布や袋さらには服を売ってまで剣を手に入れなさいと言われるのか、その理由がわからないからである。その鍵は37節にある。「その人は犯罪人の一人に数えられた」という言葉は有名なイザヤ書53章12節からの引用である。「苦難の僕の歌」と呼ばれているイザヤ書53章は主イエスの十字架の苦難を預言していると言われている。その預言通り主イエスは2人の犯罪人にはさまれるようにして十字架につけられた。十字架につけられたということは重罪を犯した極悪人ということである。従って、今後は重罪人の弟子であるあなた方は人々から疎んじられ、迫害を受け、場合によっては主イエスと同じように殺されるようなことが起こるかも知れない。少なくも主イエスが多くの人を奇跡を行って助け、いやし、パンで養ったりして人々から尊敬され、喜んで受け入れられていた頃のように、何も持たなくても歓迎された頃とは全く状況が違うのだ、ということである。
 そのような厳しく、困難な時がやって来るということへの警告であり、覚悟をうながす言葉であった。剣を用意しなさい、とあるので主イエスは弟子たちに武装することをうながし、剣で戦うことを求めているかのように見えるが決してそうではない。「ここに二振りの剣があります」と弟子たちが言ったら「それでよい」とおっしゃった。12人いるのに2振りでよいということは、剣を振るって戦えと言っておられるのでないことがわかる。
 また、後の50節には弟子の1人がイエスを捕えに来た人に切りつけて耳を切り落としたが、主イエスはそれを止めて、耳をいやしてあげたとある。
 むしろ剣と言えばここにいるヤコブは将来使徒言行録12章2節でヘロデ・アグリッパ王により剣で殺され、殉教している。そういう時代に備えよ、という意味である。
 つまり、今日のところは2重構造になっていて、これから十字架に架けられようとしている主イエスをペトロが裏切って3度も知らないと言うだろうという予告と、しかし、それはペトロ1人の問題ではなく、主イエスが昇天されたあとの初代教会の時代になっても、ペトロが遭遇したような試練や困難に皆が会う。その時のためにペトロの経験したことは貴重な意味を持っている。それを生かして、後の時代、多くの人を力づけてやりなさい、ということである。
 ペトロはこの後主イエスの予告通り、主イエスのことを3度知らないと誓ってしまう。迫害を恐れたからである。しかし、復活の主に出会い立ち直らされた。その背後に主イエスのペテロのための祈りがあったのである。ペトロをふるいにかけて、主イエスを裏切らせたのはサタンの働きである。ペトロの主イエスに対する熱情は本物であった。しかし、主イエスへの忠誠はペトロの人間的な熱情によって貫くことはできない。サタンの力の方が強いからである。主イエスのとりなしの祈りによってのみ、ペトロは立ち直ることができた。それが大切。
 後にペトロが弟子の手本とされたのは彼が失敗しなかったからではない、立ち直ることができたから。しかも自分の力ではなく主イエスの祈りによって立ち直ることができたということを良く知っていたから。
 むしろ、無残な失敗をしたこと、それにより自分の弱さを知らされたこと、しかし主イエスの祈りによって立ち直らされたこと、それが類似した試練に直面した他の人々を力づけることができる。
だから、たとい重大な誤りを犯したとしても神さまに悔い改めて、赦しを求めること、それ自体が信仰のしるしである。
 失敗しないことが大切なのではない。失敗しても主イエスの祈りによって立ち直ることが大切なのである。
 ペトロは、後に初代教会の指導者になった。今度は本当に牢に入れられ、最後は逆さはりつけになって殉教の死を遂げたと言われている。「イエスさまは祈っていて下さる」私たちのためにも、祈って下さる。そのことを忘れずに、主イエスに従う者となりたい。

 

文:木下宣世牧師

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