西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「晴れやかな世界への解放」◇

2014年4月20日

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 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ルカによる福音書24の13−35


 2014年のイースターを迎えました。皆様の上に復活の主イエス・キリストの新しい命の恵みが豊かに与えられるよう祈ります。
 今年のイースターは「エマオの村での主イエスの顕現」の物語から御言葉を頂きたいと思います。
 ある人はこの物語を一幅の絵を見るようだと評します。またある人は、これは優れた短編小説だと言います。確かに、この物語を題材とした名画がありますし、完成度の高い文学作品を読んでいるような感動をおぼえます。
 この話がそのように多くの人々に愛される理由は物語性が非常に豊かであり、読む人を引きつけることと、私たちに明るい希望を与えてくれるからだと思います。そして、その原因は主イエスの復活にあることは言うまでもありません。
 唯、物語の前半は決して明るくありません。むしろ暗いのです。主イエスがよみがえられた日、2人の弟子がエルサレムから11kmほど離れたエマオの村に向かって歩いていました。その内の1人はクレオパという名で、2人は12弟子以外の弟子たちでエマオの村は彼らの出身地であったと思われます。2人は歩きながら「この一切の出来事」について話し合い、議論していました。即ち主イエスを埋葬してあった墓が空になって、主イエスの遺体がなくなってしまったこと、又墓に行った女性たちに2人の天使が主イエスは復活なさったと告げたこと、それを聞いたペトロや他の弟子たちも墓に行ってみたが、やはり、亜麻布(イエスを包んであった)しかなかったこと等についてでありました。
 そこに復活の主が近づいて来られました。しかし、不思議なことに2人は目が遮られて、それがイエスさまだとは分からなかったというのです。主イエスは彼らと一緒に歩き始め、あなたがたは何を話し合っていたのかと尋ねました。その時2人は「暗い顔」をして立ち止まりました。「暗い」とは陰気なことです。望みを失って暗い悲しみに満ちた顔のことです。クレオパの方が答えました。驚いています。だから立ち止まってしまったのです。恐らく主イエスの方に向き直ってききました。「あなただけはエルサレムで起こったことをご存じなかったのか」との質問です。イエスさまが知らないはずはありません。むしろこれは著者の皮肉が込められた言葉だと思います。主イエスだけが知らなかったのではなく、この日起こったことを本当に知っておられたのは主イエス唯一人だったのです。クレオパも表面的には何が起こったかは知っていました。しかし、本当に何が起こったのか、そしてその意味は何なのかについては全くわかっていなかったのです。
 そのことが次の会話で明らかにされていきます。主イエスは「どんなことですか」とわざと問われます。2人が出来事の本当の意味をわかっていないことをわからせるためでした。彼らの答えは、自分たちが主イエスをどんな方だと思っていたかを明らかにします。そして、20節のところまではほぼ正しい理解であると言っていいでしょう。しかし、21節の「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」は問題です。彼らは主イエスに政治的な解放を望んでいたのです。それ故に彼らの望みは主イエスの十字架の死によって吹き飛ばされ取り去られてしまいました。そして「今日で三日目です」という言葉にも皮肉が込められています。何故なら主イエスは生前繰り返し、十字架の死後三日目に復活する、ということを予告しておられたからです。今日がその日です。しかし、彼らは主イエスの言葉を忘れて今日がどんな日かわかっていないのです。従って22節以下にあるように、お墓での出来事を聞いても、主イエスの復活は信じられず、「あの方は見当たら」ず、目の前の方がその方であることにも気が付きませんでした。
 これが2人の弟子たちの正直な気持ちであり、彼らの信仰のありのままの姿であったのです。
 そこで主イエスは25節にあるように、弟子たちの不信仰を嘆き、「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」と言われました。
 主イエス御自身3度も繰り返して十字架の死と復活について予告しておられました。25節に「心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とあるように私たちも「すべて」は信じられないのです。聖書の言葉でも主イエスの言葉でも、自分に都合のいいことは受入れるけれど、都合の悪いことには耳をかさない傾向をもっています。
 ここで主イエスは2人に、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。主イエスについて旧約聖書のどこに書いてあるのだろうかと思う人もいると思います。詩編22編やイザヤ書53章、等々いくつかの箇所を思いおこしますが、大きく把えれば旧約聖書全体が主イエスの死と復活に向かっている、と言ってよいでしょう。主イエス御自身の言葉に「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5の39)という御言葉がある通りです。
 この主イエスの聖書の説き明かしが2人の心を徐々に開かせ、彼らの信仰を芽ばえさせていきました。この時彼らの心に灯がともり、気づかぬ内に心が暖められていたのです。
 ですからエマオの村に着いた時、彼らは主イエスを無理に引き止め自分たちの家に招じ入れました。そして食事の時、主イエスがパンを取って賛美の祈りをし、パンを割いて2人に与えられると、突然2人の眼が開けて、その方が主イエスであると分かったのです。するとその途端主の姿は見えなくなりました。
 その時、彼らは主イエスの復活を信じることができました。そして、御言葉の説き明かしを聞いていた時、心が燃えていたのを思い出しました。2人は喜びにあふれ、このことを仲間に知らせてあげたいと直ちにエルサレムに引き返しました。もう夜になってしまいましたが彼らの心は明るかったと思います。エルサレムからエマオに向かう時は明るい時間でしたが心は暗かったのと反対です。
 そしてエルサレムに着くと、他の弟子たちも、もう集まっていて、主は本当に復活してペトロに現れた、と話し合っていました。勿論2人も自分たちに主イエスが現われてくださった様子を伝え、喜び合ったのです。これまで主イエスを失い、悲しみと失意の内に意気消沈していた弟子たち、十字架によって、これまで主イエスに望みをかけてきた夢や希望が破られ、失望し、これまで主に従ってきた人生が無意味となり、幻滅を感じていた弟子たちが、イエスは生きておられることを目の当たりにすることによって全く新しい希望を与えられ、心に平和と喜びを与えられました。暗く、重苦しい、閉ざされた世界から、明るい、晴れやかな世界へと解放されたのです。ある人はこれを全歴史の決定的な出来事と表現しました。主イエスの復活は人間の歴史を根底からくつがえし、人間の世界を一変させました。闇から光へ、絶望から希望へ、滅びから救いへです。
 私たちもこの出来事を多くの人に伝えましょう。そして「本当に主は復活された」ことを喜びましょう。これが私たちの交わりの原点です。
 

文:木下宣世牧師

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