西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「聖霊の降る時には」◇

2014年6月8日

「今月の説教」リストへ


 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

ヨハネによる福音書14の25〜31


 本日はペンテコステを迎えた。皆様の上に聖霊が豊かに降されるよう祈る。使徒言行録2章にはペンテコステの出来事が記されていて、それによるとエルサレムのある一軒の家に集まっていた主イエスの弟子たちの群れに突然激しい風が吹いてくるような音とともに、炎のような舌が現われて、1人1人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされて、霊の語らせるままにほかの国々の言葉で語り出した。丁度この時世界各地から五旬祭の祭りに集まってきたユダヤ人たちは、弟子たちが自分たちの国の言葉で語られたので驚き、とまどったのである。
 その時弟子たちは何を語ったかというと「神の偉大な業」についてであった。その詳しい内容はその時語ったペトロの説教に表わされている。こうして弟子たちの語る神の偉大な業についての説教を聞いて多くの人が悔い改め、洗礼を受け、そこに教会が誕生したのである。
 このようにして主イエスが予言した言葉が成就した。それは使徒言行録1章8節の言葉で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」である。
 ここで「聖霊が降ると力を受ける」とあるが、聖霊の力とはどんなものか。その力はどんな働きをするのか。
1. 勇気を与える。ユダヤ人たちを恐れて身をかくしていた弟子たちが人々を恐れず語り出した。
2. 理解力を与える。人々に語るべき神の偉大な業を悟り、それを人々に伝えられるようしっかりと理解する力。
今日の聖書箇所はその2つの事柄について述べている。
 ここは主イエスが間もなく捕えられ十字架にかけられ弟子たちのもとを離れようとする時、最後の晩餐のあとになさった訣別説教の一部である。主イエスは弟子たちが恐れ、悲しみ、不安をおぼえている時に自分が去った後に自分のかわりに聖霊を父なる神は遣わして下さるから心配しなくてよいのだと慰め励ましているのである。
 その聖霊をヨハネ福音書では弁護者と言い、また真理の霊とも言っている。パラクレートスとは「かたわらに呼ばれた者」という意味で、法廷において被告人のかたわらでその人のために弁護したり代弁する人、即ち弁護者と訳された。この語には助け主、や解釈者の意味もある。また、これは真理の霊であるから真理を明らかにしてくれる働きを持っている。
 その聖霊がすべてのことを教え、主イエスが話されたことを全て思い起こさせて下さる、と言うのである。この聖霊の働きによって弟子たちはペンテコステの時、語ることができた。語るべき言葉を与えられたのである。主イエスの語られた教え、なさった業、十字架や復活等、これらの全てのことを思い起こし、この方こそ神の遣わされたメシヤ救い主であられたことを悟り、神の偉大な業(救いの業)を理解することができた。
 また、27節では「わたしの平和」を与えると言われた。この世の与える平和ではない。キリストのお持ちであった平和を、遺産をのこすようにして弟子たちに与えると約束された。その平和を受け継ぐのだから心を騒がせるな、おびえるなと言われた。それだから弟子たちはあの時恐れることなく勇気をもって語り始めることができたのである。
 最近、松岡広和という人の書いた「イエスに出会った僧侶」という本を読んだ。まさに聖霊の働きはこれだと思うような出来事が書かれてある。
 この方は谷中にある天台宗のお寺に次男坊として生まれた。中学の時陰湿ないじめに会い「自分は何で生きているのか」「生きる意味は何か」を考えるようになった。お坊さんになるため大正大学の仏教学部に入り、天台学その他の仏教の本を読みふけった。比叡山に行って修行もした。しかしなかなか疑問が解けない、大学院の博士課程の時、交換留学で韓国の東国大学に留学する。この方は前から韓国が大好きで念願の韓国で生活できることが嬉しかった。しかし、人生の意味はまだ解けず虚しさを感じていた。
 半年後のクリスマスに教会に誘われて後学のため行ってみる。何も感じないが、熱心に誘うお嬢さんがいて次の日曜も教会へ行く。そこで執事をしていた鄭さんから聖書研究に誘われ、聖書位は知っておかねばと思い、韓国語の勉強にもなるというので受け入れた。
 するとそれは鄭さんと1対1でテキストを用いて学ぶ形。創世記の天地創造の物語と仏教の考え方の相違に驚き、聖書には何かあると感じて学び続けた。鄭さんは新婚ホヤホヤで家に呼んでくれ、一緒に食事をして大変親切にしてくれた。しかしやがて壁にぶつかる。罪ということがわからない。自分が罪人であることを認められない。従って十字架の意味もわからず、自分とは関係ない話に思えた。
 そこでもう教会へ行くのはやめようと思ってそのことを書いて鄭さんに郵便で出した。ポストに入れて帰ってきたら鄭さんから今晩聖研に来ないかと誘われ、手紙は明日か明後日に着くだろうから、まだいいかと思って出かけた。そうしたらその日のテキストはマルコ1章15節「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉であった。学んだあと感想文を書いて日曜日の礼拝後の青年会で読みなさいと言われた。学んだ内容は書けたが、罪がわからないので悔い改めることもわからない。それで土曜日にまた鄭さんの家に行っても、もう1度書いて下さい、と言われてしまう。その晩はお宅に泊めてもらった。夜中まで考えても書けない。日曜日の朝早く起きて、朝食の前、とうとうもし自分が悔い改めたとしたら何と書くか、と思ったら、「神さま、お赦し下さい。わたしは罪人です。神さま私は今まであなたを無視してきました。どうぞお赦し下さい。赦されるような者ではありませんがどうかあわれんで下さい」と次々と言葉が浮んでとうとう用紙一枚びっしり書いてしまった。
 タクシーで教会に行く時鄭さんに見せたら「松岡兄弟にもとうとうこの日が来ましたね」と感心している。しかし本人は全く感じない。
 礼拝後の青年会で講壇の前の小さな机の前に立って読み始めた。前半は学んだ内容を淡々と読む、次に悔い改めの文章になって、「神さまお赦し下さい。私は罪人です。」と言ったとたん涙があふれ、大きな声で泣き始めた。同時に体から力が抜け、机につっぷしてしまった。自分でも驚いたが涙が止まらない。泣きじゃくりながら最後まで読み終わったとき、今まで味わったことのない大きな喜びに満たされていた。「神さまは確かにいらっしゃるのだ」とわかったことですべてが解決し、長い間求めていた人生の意味がその瞬間に明らかになった。
 これは聖霊の働きだと思った。不思議なことに彼が出した例の手紙は郵便局の手違いでこの3日後に着いたそうである。
これ以後周囲の世界が一変してしまった。彼は洗礼を受け、家族や恩師等の説得を振り切って大学をやめ、寺を出て、日本に帰り教会生活をし、韓国の教会で知り合った女性と結婚し、とうとう牧師になった。
 このように聖霊はこの時代にもなお私たちに働いて、福音の真理を教え、この世を越えた平安を与え、恐れることなく信仰を貫かせて下さるのである。
 

文:木下宣世牧師

TOP
mail:nishichiba@church.jp
Copyright (c) NISHICHIBA CHURCH. All Rights Reserved.