西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「たらい回しにされる主」◇

2014年7月6日

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 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

ルカによる福音書23章1節〜12節


 22章の終りの部分では、ユダヤ人の最高法院における主イエスに対する裁判について記されていた。強引に主イエスを神を冒涜する者と決めつけた、一方的な自分たちの筋書通りの裁判であった。
 しかし、それだけでは主イエスを死刑にすることは彼らには許されていなかった。それは当時この地方を支配していたローマ総督が決定し執行する権限を与えられていたからである。
 そこで彼らはそのまま主イエスを連れて総督ピラトのもとに行き、彼に主イエスを裁くよう訴えたのである。
 その際彼らは訴えの内容を巧みに変えている。自分たちの裁判では主イエスが自分は神の子だと言ったとして神を冒涜する罪を犯したと決めつけたのであるが、そのことを理由に訴えてもそれはローマ総督には取り上げてもらえない。ローマ帝国は支配する民の宗教問題には一切係わらなかったからである。
 そこで彼らは主イエスをローマ帝国に対する反逆者として訴え出た。つまり2節にあるように民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、自分を王たるメシアだと言っている、という3点を挙げたのである。
 しかし、主イエスは20章20節以下のところで有名な「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)と言われ、決して皇帝に税を納めてはならないなどと言っておられない。また「王たるメシア」という言い方もユダヤ人が勝手に言い方を変えて、いかにもローマ帝国に対抗する革命家のような意味を含ませてピラトの心を動かそうとしていることがわかる。
 ピラトはユダヤ人たちの意図は見抜いていたと思う。そこで1つだけ質問する。「お前はユダヤ人の王なのか」という問いである。ピラトにとってはこれだけが問題であった。だから「メシアであるかどうか」は訊いていない。宗教的・信仰的な問題には立ち入らないからである。それに対して主イエスは「それはあなたが言っていることです。」と答えられた。肯定とも否定とも受け取れる言い方である。しかし、ピラトには主イエスがこの世の王様だとは思えなかった。そこで無罪を宣告するのである。しかし、彼らはそれでは引き下がれない。そこでさらに主イエスの罪状を訴えたのである。
 その訴えの言葉でピラトは閃いた。主イエスがガリラヤの出身であることがわかると、たまたま過越の祭りでエルサレムにガリラヤの領主ヘロデ・アンテイパスが来ていることを思い出したのである。
 そこでピラトは主イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデに裁いてもらおうと思ったからである。ヘロデは以前から主イエスと会いたいと思っていた。(9章9節)但しそれは主イエスの行う奇跡の業を見たいためであった。そこでヘロデは主イエスに色々と質問した。恐らく奇跡をしてみせるようにと願い命じたりもしたのであろう。しかし、主イエスはヘロデに対して沈黙を守られた。一方ここにもユダヤ人たちが押しかけてきて、ヘロデに対して主イエスをしきりに訴えた。
 問いに答えない主イエスに対してヘロデは自分の兵士たちと一緒になって主イエスをあざけり、侮辱し、派手な衣を着せてピラトのもとに送り返した。
 このことを通し、この日ヘロデとピラトは仲がよくなった。ローマ総督とユダヤの国の領主とでは利害関係が一致しない。常にいざこざがあっただろう。13章1節にはピラトがガリラヤの住民を殺害したことが書かれてある。このようなことを巡っても対立はあったと思われる。しかし、ピラトがヘロデを立てて会いたかった主イエスを送って敬意を表したことも、ヘロデにとっては面目を保つことの1つであったし、主イエスを共通の被告人として尋問する立場の者同志のつながりのようなものを感じたのであろう。「悪事における友」とか「空虚な和解」といった表現が注解書に出ていた。うわべだけの共通の敵が出来たときに手を結ぶ離合集散といったようなはかない仲の良さである。
 ここを読んで浮かんできた言葉が「たらい回し」であった。広辞苑を引くと「一つの物事を、責任をもって処理せずに次々と送りまわすこと」とある。まさにその通りでピラトもヘロデも自分で責任を取ろうとしない。6節「イエスをヘロデのもとに送った」とある。そして11節「ピラトに送り返した」殆ど同じ言葉である。原文では「送った」も「送り返した」も同一語である。両者共に同じように主イエスをまるで荷物を扱うように送ったり、送り返したりしている。
 特にヘロデ王のところを読むとその軽薄さに愕然とする思いである。王様といってもこの程度なのかと思う。毎日の生活が余程退屈だったのか。他にやることがなかったのか。彼が主イエスに会えて喜んだのは何か不思議な業を見てみたいということであった。まるで主イエスに手品を所望しているような軽さである。  その願いがかなえられないと、今度は一転して主イエスを兵士たちと一緒になってあざけったり、バカにしたりする。下品で愚かな感じがする。ある注解書の中に、11節の「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱した」のところは「ヘロデはうしろにひかえた兵卒と共にイエスは何ら重要ではないと考えた」と訳すこともできると書かれてあった。ずい分違う訳ができるものだと思うが、しかし意味としては通ずるように思う。「イエスは何ら自分にとって重要ではない」と考えるから、このように主イエスをさげすむようなことができるのである。自分にとって重要な方でなければ主イエスはせいぜい不思議な奇跡を起こす手品師か、気のきいた人生論を語る教師程度にしか思えないであろう。ヘロデを笑ってはいられないのである。
 裁判の記事が前回から続いているがユダヤ人たちが主イエスを処刑するための口実として求めた「お前はメシアか、神の子か、王なのか」ということを、真実な意味で「主イエスこそ、神の子メシアまことの王」と告白することが大事なんだと教えてくれているのではないか。そうでなければナザレのイエスという人物はヘロデと同様私達にとって手品師や人生訓を与えてくれる人位でしかなくなってしまうということなのではないか。それでは意味がない。
 主イエスが誕生された時、宿屋には彼らの泊まる場所がなかった、とルカ福音書は語る。それではいけない。
 私たちは主イエスを本当に神の御子、私の救い主として信じ受け入れる者でありたい。
 

文:木下宣世牧師

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