西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「この人は正しい人だった」◇

2014年8月3日

「今月の説教」リストへ


 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

ルカによる福音書23章44節〜49節


 いよいよ主イエスが十字架の上で息を引き取られるところにきた46節である。その前の44,45節は一連の神秘的な出来事が起こったことが報告され、後半の47〜49節は主イエスの死を目撃した人たちの反応が語られている。
 まず、前半であるが、ここを読むとそれまでの場面とはうって変って急に静かになったような感じがするのである。これまでは主イエスを十字架につけるにあたり、沢山の人々が登場してきて口々に主イエスをののしったり、嘲笑したり、バカにしたり、散々悪態をつくのである。人間の罪が渦巻き、醜さがむき出しにされているようなまことに騒々しい様子であった。
 しかし、今やその騒がしさは背後に退き、沈黙の闇が訪れた。3時間に及ぶ暗黒の時である。人々は何が起こったのかと恐怖を感じ、おびえて口をつぐんだのではないか。人間の歴史の中に神が入って来られたのである。
 旧約聖書では主の日、終りの日が来る時、神は「真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス書8章9節)とある。
 使徒言行録2章20節でも「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、」と述べている。主イエスがまさに死を迎えようとしている。それは神の救いの計画が実現しようとしている時、神の時なのである。
 さらに「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。これも考えられないことである。この幕は神殿の至聖所の前に下げられていて、神の臨在する神聖な場所に人間が入ってそこを汚さぬよう設けられたものである。言わば人間をシャットアウトする幕であった。
 今、その幕が裂けたということは主イエスの十字架を通して、へだてられていた神と人間との関係が破られ、神と人間とのへだてなき関係が造り上げられたことを示すのである。先に十字架の上で自分を十字架につける者たちのために執りなしの祈りをされた主イエスは神さまと私たち人間をつないで下さる執りなし手であり、仲保者であることが表わされたのである。
 そしていよいよ主イエスの死の場面がくる。ルカ福音書はその時主イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られたことを記す。この言葉は詩編31編6節からきた言葉である。「霊」とは人間の体から離れた霊的な部分を言うのではない。体も心も全てを含む人間存在そのものを表す言葉である。自分の全てを御手にゆだねますと祈られたのである。
 それを見ていた3通りの人々の反応が書かれているのが47節以下である。これは十字架にかかる前の主イエスに3通りの人々が出てきたことに対応していて、ルカの文学的な技法である。
 まず第一は主イエスを十字架につけた本人である百人隊長である。彼は主イエスを見て「本当に、この人は正しい人だった」と告白したのである。マルコによる福音書では「本当に、この人は神の子だった」と記している。「正しい人」と言うのと「神の子」では違いがある。
 「正しい人」とは無罪ということで、主イエスには罪が無かった、という意味になる。そうだとすると「この人は無罪なのに十字架につけられた」ということで、ピラトの発言と大差はない。
 しかし、果たしてそうだろうか。やはりそうではない。この百人隊長の言葉はルカ福音書の中で、重要なキリスト告白だと思う。
 次は群衆である。彼らは「これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っていった」のである。これを読むと群衆程あてにならないものはない、と思ってしまう。彼らは先程まで主イエスをあざわらっていた連中なのではないか。少くも高見の見物を決め込んで、ながめていたのである。それが手のひらを返すように胸を打って帰った。
 しかし、よく考えてみると自分も彼らと変らないなと思わされる。その時々の雰囲気や情況に流されて右と言ったり、左と言ったりしてしまう。信仰の面でもフラついたり、弱まったり、躓いたりして確固とした歩みをなすことの難しさを感ずる。神より人を恐れたり神より富を大事にしたりする。でもハッとしたのは、使徒言行録を見るとペンテコステの日に3千人もの人が洗礼を受けたとある。その中にこの群衆が何人かは含まれていたのではないか。そうだとすると、神さまのなさる御業はすごいなあと思う。
 そして最後は、イエスを知っていた人々とガリラヤから主イエスに従ってきた婦人たちはこれらのことを見ていた。この「見ていた」は唯の見物ではない。証人になったということである。彼らは主イエスの十字架の様子を目に焼きつけていた。そして後にそのことを語り継ぐ証人となったのである。
 さて、この箇所のクライマックスは何と言っても46節の主イエスの十字架上での最後の祈りと、47節のそれを見ていた百人隊長の告白である。先程主イエスの祈りは詩編31編6節からの引用だと言った。それはこうなっている。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」。これはユダヤの人々が夕べに祈る祈りであった。眠りにつく前の祈りである。そして幼い子どもたちに母親がこの祈りを教えたのだそうである。暗い夜、心配しないで、神さまにすべてをおゆだねして眠りなさい。
 その祈りを主イエスは「父よ」と神さまを呼んで「わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られた。死を前にして、父なる神に完全に信頼して、自分の存在の全てを御手にゆだねたのである。この時の主イエスは、安心しきって、実に平安であったと思う。
 だからその様子を見て百人隊長は、神を父と呼んで祈るこの人は何と深く、確かに、正しく神とつながって生きている人であるかがわかった。それが「この人は正しい人だった」という告白となって口をついて出た。この方はまさに神の子であられたと言うのと同じ中味の告白であった。
 この祈りは殉教者の模範であると2,3の注解書に出ていた。使徒言行録7章でステファノがやはりこのように祈っている。ルターも死に際してこの祈りを祈ったと言われているそうである。
 しかし、この祈りはイスラエルの母たちが幼な子たちに口移しで教えたように、ここでイエスさまが私たちに「父よ」と言って祈りなさいと教えておられるのではないか。
 死の間際だけでない。夜休む時だけでもない。いつも悩みや疑いや、恐れ等の中にいる私たちが、その都度口に出して、或いは心の中で祈るべき言葉なのではないか。

 

文:木下宣世牧師

TOP
mail:nishichiba@church.jp
Copyright (c) NISHICHIBA CHURCH. All Rights Reserved.