西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「復活の主の顕現」◇

2014年9月7日

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 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ルカによる福音書24の13〜35


 「エマオへの途上にて」とか「エマオへの道」という呼び方でよく知られたこの物語はこれまでイースター礼拝やその時期の様々な集会で何回となく話してきた。皆さんも色々な機会にこの物語に触れてきたのではないかと思う。おなじみの話である。
 しかし、先週も言ったように、主イエスの復活物語を連続して読み通す機会は余りない。単発的に取り上げられる。
 だから続けて読むとどうなるか。新たな学びになるのではないか。そういう目で見てみたい。
 そうするとこの前の部分の空虚な墓のお話では主イエスの復活物語は完結しないことがわかる。他の福音書でもそうだが、空虚な墓の段階では、まだ弟子たちは主イエスの復活に思い至らないのである。御使いに「主はもうここにはおられない。よみがえられたのだ」と宣告されてもその言葉を理解できない。つまり復活信仰には達しない。
 弟子たちが主の復活を信じるようになるためにはどうしても主ご自身が弟子たちに復活の姿、生きた姿をお示しにならなければならなかった。それが空虚な墓の次に来る顕現物語である。
 この「エマオの途上」の物語もまた顕現物語で復活の主イエスが2人の弟子に姿を現わされるというお話である。(文学作品としても傑作といわれる印象的な物語である。)
 しかし、初め主イエスが彼らに近づき、一緒に歩き始められたのであるが、2人はそれが主イエスだとは気づかなかった。彼らは夢中になってその日、エルサレムで起こったことについて論じ合っていた。しかし、目がさえぎられていて、主イエスであることがわからなかった。不思議なことである。
そこで主イエスの方から「あなたがたが話している事柄は何ですか」と尋ねる。この問いは彼らに復活を信じさせるための導入。彼らは驚きあきれる。「あなただけはご存知なかったのですか」と言うが、クレオパの18節の言葉にはアイロニーが感じられる。皮肉である。この、実は出来事を一番良く知っておられたのは主イエスだけ、クレオパたちは事柄の本質を何もわかっていない。そのことが次の会話で暴露される。「どんなことですか」との問いに19節で2人が答えた内容はかなり正確に事柄をとらえている。つまり、自分たちが力ある預言者として望みをかけていたナザレのイエスが十字架刑にかけられ殺されてしまった。望みを絶たれたので暗い顔をしていたのである。そして22節から今朝起きたことを語っている。これも1節〜12節までのことをよく要約している。
 だから、ここで2人の語ったことは表面的にはその通りと言ってもよい位であるが、しかし、主イエスのことも、今回の出来事の意味も肝心なこと、一番大切のことを理解していない。例えば主イエスは行いにも言葉にも力のある預言者と言っている。(19節)そして「イスラエルを解放して下さる」と望みをかけていた。つまり、めざましい奇跡を起こし、民衆を教え導く言葉の力をもった、大預言者で、イスラエルの国をローマの支配から脱却させて下さる方と思っていた、ということである。
 しかし、主イエスは確かに行いも言葉にも力がある方であったが、単なる預言者か。イスラエルを政治的・社会的に開放する指導者か。そうではない。預言者以上の方。生ける神の子メシヤであられる。そこのところ、一番大切なことがわかっていない。だから「もう今日で三日目です」(21節)と言っているが、これも皮肉。主イエスは、生前くり返し「三日目に復活する」とおっしゃっておられた。「いよいよ今日はその三日目です」というならわかる。「死んでもう三日目になります」と言っている言葉は何もわかっていないということを表す。
 そこで後半に入る25節では主イエスに「ああ物分りが悪く、心が鈍い…」者たちよ、と言われてしまう。でも主イエスは彼らを見捨てない。それどころか、メシヤは苦難を受け、殺され、そして復活し栄光に入るはずではなかったのか、と教え始めた。そして聖書全体のレクチャーをして下さった。
 こんな幸いはない。イエスさま自ら聖書全体を教えてくださるなんて夢のよう。結局、「モーセと預言者から始めて」というのは、旧約の創世記から始めて、モーセ五書(律法)そして預言書さらに聖書(旧約)全体、これはヨハネ5章39節にあるように主イエスについて証しする。
 イエス・キリストは単に行いと言葉に力がある預言者ではなく、神のひとり子でありながら苦難の僕として、私たちにかかわり、罪ととがを負うて贖いの死をとげ、私たちの罪を赦し、滅びから解放して下さる。そして三日目に復活され、私たちにも復活の命を与えて下さる。そのことがわかり、(信じられる)と心が燃やされる。心が暖かくなる。かーっと熱くなるより、ジーンと暖められる。
 この2人も、主イエスの話をきいてそのことを経験した。彼らはエマオの村に着いた時、主イエスをおひきとめして、一緒に夕食を摂る。と、主がパンを取って祈りを唱え、それを裂いて与えて下さる姿をみた。すると目が開けて、主イエスだと分かった。それで主イエスの役割は完了した。顕現の目的は達成されたので見えなくなった。2人は大きな喜び、また力に充たされ、仲間のいるエルサレムにこの知らせを告げるべく走り出した。
 これはルカ福音書の頂点をなす物語であり、これまでの叙述の縮図だと言われている。エルサレムからエマオへの道はガリラヤからエルサレムへの主と弟子たちの旅行の縮図、彼らは主と共に旅をし、主イエスの行いと言葉を見・聞いたが、それが、主イエスの受難と深く結ばれていて不可欠であることがわからなかった。再三、受難と死、復活を予告しておられたのに、理解できなかった。
 エマオへの道において、そのことの意味を旧約聖書を通して2人に教え、パン裂きによって復活を信じさせた。そのことにより、これが、主イエスの真のお姿であり、主イエスの救いのみ業なのだということをのべている。だからこれはルカ福音書の頂点であり、結論だということである。私たちもこの2人のようにエマオへの道を歩んでいる。そして主イエスは今も働いて下さる。私たちを教え信仰に導いて下さる、この主イエスを信じ、救いに与る者となりたい。
 

文:木下宣世牧師

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