西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「平安汝らにあれ」◇

2014年10月5日

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 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

ルカによる福音書24の36〜49


 今日は復活物語の第3回目である。第1回目は空虚な墓の物語。主イエスの女弟子たちが主イエスの御遺体に香料を塗って差し上げようとお墓に急いで行ったら、お墓には主イエスの御遺体はなかった。そこに天使がいて主イエスは復活されたのだ、と告げた。そこで彼女達はそのことを男の弟子たちに話したが信じてもらえなかったという話。
 第2話はエマオの村の出来事。二人の弟子がエマオに行く途中で復活の主と出会ったがそれが主だとわからなかった。しかしエマオの村で夕食の時主イエスがパンを裂いてお渡しになる姿を見て、彼らは目が開かれて、それが復活の主だと気付いたが、その瞬間に主の姿は見えなくなった。しかし彼らは喜んでその知らせを告げにエルサレムの仲間たちのところに急ぎ帰った。そしたらエルサレムでも復活の主がペトロにも現われたということで皆がそのことを話合っていたというのである。
 そして今日は3回目で今度はそのような話をしている弟子たちの集団の中に復活の主が入って来られたという話である。こういうように復活物語には順序があり、展開や進化がある。初めは不信、次に一人か二人という少数者への顕現そして第3段階は11人を中心とするもう少し多数の集団に顕現される。
 その時彼らは主イエスの復活について話し合っていた。そうするとそこに主イエスが現われ、彼らの真ん中に立たれた。そして「あなたがたに平和があるように」と言われた。ところが今まで主の復活について、その話を聞いて話し合っていたにもかかわらず、彼らは自分たちの目の前に主が現われると恐れおののき、亡霊だと思ったというのである。これに対して主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と叱っておられる。これが弟子たちのありのままの姿。空虚な墓の話しを聞いても信じない。仲間の何人かが主とお会いしたと言っても、主が復活したことがまだピンと来ない。それで主が現われると亡霊だと思って恐れる。そうだとすると、主イエスの復活は信じないが亡霊の存在は信じている、ということになる。現代人も余り変わらない。復活なんて非科学的なことは信じない、と言うが、案外亡霊とか幽霊などを恐がったりする。
 それで主イエスは手や足を見せてさわってみなさい、と言われる。「まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」恐らく釘あとがあったであろう。
 それでもまだ信じ切れないでいる弟子たちに対し、焼いた魚を食べてみせた。非常にリアルな感じがする。主イエスの復活は体をとった具体的な現実的な事なのである。亡霊でもない幻影でもない。触われるような、実際的な事なのである。よく復活は弟子たちの心に鮮明に残された主イエスの記憶である、という人がいる。しかし、主イエスの復活はそのような主観的な、精神的、内面の事柄ではない。
 さらに主の復活はそれだけではない、44節以降にあるようにこの事は「モーセの律法と預言者の書と詩編」これは27節にもあるように旧約聖書全体で指し示していることの成就、言いかえると46節にあるように十字架と復活、このことを通して罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる。つまり、主イエスの復活は確かに私たち人間の理解を越える仕方で起こった神の奇跡の御業であるが、それだけではなくそれは私たちの罪を赦し、神の救いをもたらす確かなしるしとしての出来事であったのだということを述べているのである。
 このことを後に使徒ペトロが使徒言行録10章40〜43節でこう述べている。神は主イエスを十字架の死後3日目に復活させ、私たちにその姿を現わして下さった。そして私たちはその主イエスと食事を共にした。この方こそ、信じる者には誰にでも罪の赦しを与えて下さる方である。これがペトロの復活についての証しである。
 もう1つ。主イエスはかってルカ10章で72人の弟子を宣教に遣わした時、弟子たちにこう教えた。どこかの家に入ったら、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。次にその家で出されたものを食べなさい。そして神の国はあなたがたに近づいたと言いなさい。
 今日のところで復活の主はかって弟子たちに教えたとほぼ同じようなことをしておられる。しかし、両者の決定的な違いは、今度は復活の主御自身が、十字架と復活を経てこのことをなさっている。つまり救いの業をなし遂げておられる、ということ。「従って平安汝らにあれ」との言葉も既に実現した確かな約束として与えられているということである。感謝。
 

文:木下宣世牧師

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