西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「先駆者の後を継いで」◇

2014年11月2日

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 モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。 主はモーセに言われた。
 「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、 彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。

申命記34の1〜12


 本日は御遺族の方々をお迎えして共に永眠者記念礼拝を行うことができ感謝する。昨年のこの礼拝以後今日までに永眠された方は15名おられる。他の方々も勿論であるが特にこの15名の方々の御遺族に対して天来の慰めを祈る次第である。
 本日皆様に永眠者のリストをお配りした。323名もの方々のお名前が記されている。今日は永眠者記念ということでこれらの方々のことを記念するわけであるが、私は聖書の中からモーセという人を取り上げて、その生涯と死を想起してみたいと思う。
 というのは、ここにモーセの死の場面が描かれているが、モーセの死に関しては幾つかの疑問点があるからである。その第1はもう少しで約束の地に入ることができたのに何故その直前のところで神はモーセを死なせ給うたのか。第2に、彼が死んだ後、どこに葬られたのかその場所がわからない。墓が見つからないということである。モーセ程の大人物で、大変な功績を残した人の墓がないということの理不尽さである。
 しかし、今日の箇所を見ていくと、直接の答えではないが、疑問点となっていることには意味があるのだということを示されるような気がする。まず感じることは、この文章にはモーセの心情や神に対する思い、また神の言った言葉等はいっさい記されていない。そして起こった事実がたんたんと語られているということである。読んでいて厳粛さを感じる。
 彼はその時120歳であったが目はかすまず、活力もうせていなかったとある。彼が死んだのは病気のせいでも老衰のせいでもなかった。ただ、5節によると「主の命令によってモアブの地で死んだ」のである。カナンの地で死んだのではなかった。その寸前にモアブの地で死んだのである。神さまはむごいことをなさるとさえ思える。
 しかし、モーセはピスガの山頂から、神が約束した土地を見渡す機会を与えられている。これは創世記13章14節以下に記されている場面と良く似ている。ロトと別れたアブラハムに主なる神がベテルの近くでやはり、東西南北を見渡すようにうながし、見渡せる限りの土地を与える約束をされた。今モーセが見渡している地は神がかつてアブラハム、イサク、ヤコブにも約束した土地なのである。そして彼ら自身はその約束を見ずして死んだのである。モーセもアブラハムたち先祖と同じことを味わっている。しかし、それはモーセもイスラエルの始祖たちと同じ列に加えられたということではないか。そして、それは彼にとって名誉なことではないだろうか。
 モーセが葬られた場所はわからない。しかし、ベト・ペオルというイスラエルの民が駐留している所の近くであることはわかっている。モーセの死を知ったイスラエルの人々は30日間、モーセを悼んで泣き喪に服した。これは、モーセの兄アロンの時と同じ期間である。しかし、「その期間は終わった」という言葉に、きっぱりとした訣別の意志が感じられる。イスラエルの人々は新たな出発をする。ヌンの子ヨシュアがモーセの後を継いだ。モーセは既にヨシュアを後継者として立て、彼に按手をしている。だからモーセに与えられていた霊を今度はヨシュアが受け継いだのである。9節の「イスラエルの人々は彼(ヨシュア)に聞き従い、主がモーセに命じられた通りに行った」という言葉は興味深い。イスラエルの人々がヨシュアに聞き従ったということは即ち主がモーセに与えた命令に従ったということだというのである。神からモーセへ、モーセからヨシュアへというつながりがはっきりとしているからである。
 最後にしめくくりの言葉が語られる。10節「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」。これは最大級の評価であり賛辞である。しかし、そのモーセを選び、彼をエジプトに遣わして神の業であるしるしと奇跡を行わせ、また、全イスラエルの前でも同じように神の力ある業、大いなる出来事をなさしめたのは神であった。モーセは神が選んだ神の器であった。あるいは5節にあるように「主なる神の僕」であった。彼の語った言葉も、彼の行った恐るべき奇跡の業も皆神の言葉、神の業であった。だから彼の墓などいらない。彼の業績を顕彰する墓碑など不要なのである。唯彼は神の選んだ僕であり、神のものなのである。それはアブラハム、イサク、ヤコブから受け継ぎ、ヨシュアへと受け継がれていくものなのである。
 この箇所で1つだけ暖かさを感じる言葉は、「主が顔と顔とを合わせて彼を選び出された」である。出エジプト記33章11節には「主は人がその友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」とある。また民数記12章8節には「口から口へ、わたしは彼と語り合う」とある。「彼」とは勿論モーセを指している。
 モーセがいかに神と親しく、神に近くいたか、神がいかにモーセを愛し、信頼しておられたかが感じられる。これこそ、人間にとって最も幸いなことなのではないか。
 この幸いを私たちも受け継ぎたい。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、このような系譜は、今日までつながっていると信ずる。ここに記されている多くの永眠者も、この系譜につながっている人々である。この方々に続いて、私たちもその信仰を受け継いでいきたい。
 

文:木下宣世牧師

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