西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「自分の欲望を神とする者」◇

2015年3月1日

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 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

ローマの信徒への手紙1の18〜23


 使徒パウロはローマの信徒への手紙の主題とも言うべき言葉を1章17節でこう記しています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。即ち、イエス・キリストの十字架と復活を通し、神さまは私たちを救い、御自分の義を表わして下さいましたが、それは徹頭徹尾信仰によって実現される、と言うのです。
 そこには神さまの私たちに対する限りない愛と恵みが表わされていますが、同時にそれを受ける私たち人間のあり方、ふさわしい応答の仕方についても述べられているのです。つまり、神さまと人間との正しい関係についてであります。
 しかし、もしも人間が神さまとの正しい関係を破ってしまったら、どうなるでしょうか。神さまはそれに対しては怒りを現わされる、というのです。神とのあるべき関係をこわすことが罪です。今日の聖書箇所は、その人間の罪とそれに対する神さまの怒りについて記されているのです。
 18節にはそのことが書かれています。ここにある「真理」とは神の真理です。神の真理とは神の救いの真理です。つまり、神の救いの業を妨げる不信心と不義に対しては、神さまは天から怒りを現されるのです。「現される」と訳された言葉は「啓示される」という意味です。17節で義を啓示された神はここでは怒りを啓示されるのです。神の義の啓示は信仰に対して、神の怒りの啓示は不信仰に対して与えられるというのです。
 「妨げる」という言葉はもっと強い意味があって「とじ込める」「幽閉する」という位の言葉だそうです。神の救いの働きをとじ込めてしまう程の人間の不信心と不義とはどのようなものなのでしょうか。
 不信心は無信仰というのとは異なるようであります。むしろ神に対する畏れのなさ、不敬虔さという意味です。つまり神を全く知らないのではないのです。神さまは19節20節にあるようにその永遠の力と栄光を、被造物を通して現わしておられる、というのです。この言葉を読むと私たちは詩編19編の「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」という箇所や同8編の「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」を思い起こします。
 パウロもまた恐らくは当時の人々の一般的な考え方も、神は目に見えない方でありながら、その存在は被造物を通して知ることができるという考え方であったようであります。ですから神がおられるということは知っていたのです。
 問題は、その神と人間との関係であります。21節に「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」とあります。これが問題なのであります。神を知っていると言っても、それは自分とは関係のない存在、山があったり、物があったりするのと変わらないのです。それでは本当に神を知っていることにならないのです。神を本当に神とすること、神は私たちの創造主、私たちは神に造られた者、そして私たちに愛と恵みを注ぎ、救いを与えて下さった方であるとはっきり信じることが大切です。そこで私たちは神を拝し、心から感謝する、これが神に対するあり方です。
 しかし、人間はあくまで傲慢です。主人を持つことを好まず、自分が主になろうとします。神に対してまでも、そのあり方を変えることができないのです。その結果、心が鈍く暗くなる。神との正しい関係がこわれているため神の栄光が心に届かず、生気を失い、輝きを失うのです。
 また、自分には智恵があると自慢し、自分たちは小さな神々であると信じさえする者がいたそうであります。これは人間の知恵の高慢であり、実は愚かとなっているのです。その結果、23節にあるような神さまの取り替え行為に及ぶのです。これは結局ローマの信徒への手紙16章18節や、フィリピの信徒への手紙3章19節にあるように「自分の腹」を神にし、仕えているのです。即ち自分の欲望をかなえてくれるものを神としてしまうことです。真の神に仕えない者は結局神ならざるものを神としてしまうのです。
 これはパウロの時代の人々のことだけではありません。驚く程現代の社会と似ているではありませんか。私たちは真に神を神とし神に仕え、感謝する歩みをなして行きたいと願ってやみません。

 

文:木下宣世牧師

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