西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「律法への安住」◇

2015年5月3日 礼拝

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 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

ローマの信徒への手紙2の17−29


 イスラエルの人々、ここではユダヤ人と書かれていますが、彼らは子どもの頃から律法の民として教育を受けてきました。ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で、また各家庭でくり返し律法を読み、暗記し、教えこまれたのです。律法は神さまから下された、神さまの御言葉ですから、律法を学び、律法を身につけているということは彼らの誇りでした。
 しかし、それが次第に彼らの自負心となり、そのことを自慢し、他の民族を見下し、ごう慢になると問題です。神に特別に選ばれ、律法を授けられたユダヤ人は、他の民よりも重い責任を神さまから与えられ、神の御言葉である律法に真剣に取り組まなければならないはずです。ところが彼らは律法を与えられ、その中味を学んで知っているということで安心し、その上にあぐらをかいてしまい、律法を知ってはいても、それを熱心に守らない状態に陥ってしまったのです。
 本日の前の箇所で、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」と述べて、自分でも同じことをしていながら他人を裁く人(ユダヤ人)を批判したパウロは、今日の箇所ではそれをさらにはっきりとユダヤ人と名指しで非難するのです。
 17節のところで「あなたは」と急に2人称単数の形で1人の人を指すような仕方で「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし」と述べていますが、律法を与えられていることによりかかり、安心し切っているユダヤ人たちへの批判が感じられます。彼ら(彼)は自分と神との特別な関係を誇らしく思っています。しかし、実はそういう関係にある自分を誇っているのです。
 18節から20節までにそのようなユダヤ人たちの自己認識が記されています。ユダヤ人たちは律法を知っていることで得意になっているのです。自分たちが学んだ律法の教え・戒め・掟等は神に関する知識と真理の正しい具体的な表現であると考え、それを知り、わきまえている者として、律法を知らない民、又人々に教え、指導してやらねばならないと自負しています。これが彼らの自分自身に対する考え方だと言うのです。
 そして、その次の21節から24節までは一転して、そのようなユダヤ人に対する鋭い批判が語られます。ここにはユダヤ人の表と裏、口先と行い、言葉と実践、説教(教え)と現実生活の矛盾と分裂の様が指摘されています。
 真に人を教え、説教し、命じることは口先だけの言葉によってではなく、人格と行為によって、自分のあり方を通してでなければなりません。即ち、まず自分が教えられ、悔い改め、生まれかわることに よって初めてなされるのです。
 律法を誇り、教えようとする者が、律法を守らず、律法を破る生き方をするならば、その律法を与えて下さった神をあなどり、恥ずかしめているのであって、それは神を冒涜しているのだ、と言うのです。厳しい指摘です。
 そして25節以降は「割礼」について言及されます。ユダヤ人にとっては律法と同様に割礼も、彼らの誇りでありました。割礼という儀式は創世記17章9節以下のところで神がアブラハムを通してイスラエルの民(ユダヤ人)をご自分の民とされた契約の徴として定められたものです。しかし、それはあくまでも徴であって、それ自体が効力をもっているのではありません。その徴の中に含まれている意味が重要なのです。それはイスラエルが神の民であるという徴なのですから、イスラエルはそれに応えなければなりません。つまり、割礼を受けた者は「律法全体を行わなければならない」(ガラテヤ5の3)のです。だから律法を守れば割礼は意味がありますが、守らなければ全く意味がありません。
 実は割礼という儀式はユダヤ人だけでなく、他の民族にも割礼を行っているところがあったのです。だからその儀式が重要なのではなく律法を守ることが割礼を意味あるものとするのです。
さらに言えば割礼を受けていなくても、律法を忠実に守っていればその人は割礼を受けた者と変わりはないことになる、というのです。(2の14参照)非常に大胆な発言です。27節では割礼を受けていない者が受けている者を裁く時が来るでしょうとさえ言っています。これは主イエスも同じことをルカ11の31〜32(p129)で言っておられます。
 要するに肉に施された外見上の割礼が大切なのではなく、「心の割礼」が大切なのだと言うのです。この心の割礼という言葉は旧約聖書の預言者も述べており、それは悔い改め(2の4)即ち心を入れかえて神に立ち帰ることであります。
 それは外見上のことではなく、内面的な事がらですから、人の目に隠されています。ですからそれは人の誉れを求めるものではありません。唯神さまからのみ与えられる誉れとなるのです。
以上のことは、当時のユダヤ人にのみ当てはまることでしょうか。今日、ここを読む私たち、キリスト者にも当てはまることではないでしょうか。もしも、私たちが、洗礼を受けたことや、長い年月礼拝を守り続けてきた、とか、教会の奉仕を行っているというようなこと、自分は聖書については良く知っているというようなこと、それらのことに安住し、誇り、安心し切っていいのでしょうか。
 私たちはイエス・キリストの恵みを受けて、救いに与った者です。その恵みに応えて、日々悔い改め、恵みに相応しい信仰生活を歩みたいと思います。

文:木下宣世牧師 西千葉教会2015年5月花壇

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