西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「新しい神の義の発見」◇

2015年6月21日聖霊降臨節第五主日

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 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

ローマの信徒への手紙3の21−26


 今お読みした箇所はこのローマの信徒への手紙の中で、さらに言えばパウロの神学(信仰)の中でも最も大切な言葉であります。
 それは既に1章17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」という言葉で記されていることです。それをさらに具体的に、丁寧に展開しているのが本日の御言葉であると言うことができるでしょう。
 しかし、1章17節のテーマは一時中断された形になります。その後の1章18節から、今日の直前の3章20節までは異邦人の罪やユダヤ人の罪、そしてそれらに対する神の怒りや裁きが述べられています。その結論として、「正しい者はいない。1人もいない。」「善を行う者はいない。ただの1人もいない。」と断定され、その結果「律法を実行することによっては、だれ1人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(3の20)と結論づけられます。人間の望みが完全に断たれてしまうような厳しい言葉です。しかし、これが人間のありのままの姿である、と聖書は言うのです。そのままでは人間は神との関係を断たれ、神の裁きに服さざるを得なくなるのです。
 ところが今日の21節から、ガラリと様相が変わります。
 「ところが今や」とありますが、ここで大転換が起こります。
 「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1の78,79)とあるように、人類の歴史が根底から変えられるような出来事が起こったのです。救い主イエス・キリストの到来です。
 それは、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」という出来事です。「律法とは関係なく」とは律法とは別の仕方で、全く異なる方法で、という意味です。しかも、それは「律法と預言者によって立証されて」示されたと言うのです。矛盾した言い方に見えますが、「律法と預言者」というのは旧約聖書と考えて良いでしょう。つまり律法とは全く別な仕方ではあるが、それは旧約聖書において既に証しされていることだと言うのです。そのことと少し関係があると思いますので25節を読んでみたいと思います。「それは今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。少しわかりにくい点があるかと思いますが、ここに旧約時代の神さまの姿が描かれているように思います。神さま旧約の民に律法や預言者を通して御言葉を与え、神の民として相応しい歩みをするよう求められました。しかし、イスラエルの民の歴史は、その御言葉に背くような歩みをしてきたのです。
 ついには王国の分裂やアッスリヤやバビロニアに征服され、捕囚というような苦難にも会いました。そのような時にもなお神さまは御言葉を与え、立ち返るよう勧め、励まし、慰めを与えられたのです。そういう悲惨な状態の中で次第にメシヤに対する待望が生まれ、預言者たちもメシヤの到来を預言するようになりました。
 これら全てが「律法と預言者によって立証されたということの意味でしょう。このような歴史の中で神さまは、イスラエルの民を完全に滅ぼすことをせずその犯した罪を見逃して下さったのです。また忍耐をもって、この時を待っておられたのです。(ガラテヤ4の4にある通り)それがイエス・キリストの登場につながるのです。
 このあたりの事情を大木英夫先生は放蕩息子の譬を用いて印象深く説明されておられます。弟息子は父に背いて、父の元から離反し、放蕩に身をもちくずし、行きづまってしまいます。悲惨のきわみを経験して初めて自分の罪に気づきます。そして父の元に帰って行きます。そういう息子を父は「見逃し」「忍耐して」待ち続けます。そして弟息子を見つけると父の方から走り寄り、抱きかかえるようにして受け入れます。そして一番良い服を着せ、靴をはかせ、指輪を与え、自分の息子であることを保証し、肥えた子牛をほふって祝いの食事さえ致します。これは忠実に父の下で働いた兄息子から見たら、明らかに不当です。しかし、父は失われた子が、死んでいたのに見つかった、これは当然だと言うのです。これが神の義だと言うのです。兄は律法を忠実に守ることによって義とされる生き方をしてきた人です。しかし、父は自分に背き、恵みを浪費しまさに滅びに至るところまで行った弟を忍耐をもって待ち、自分の方から救いの手を差しのべるのです。これが神の義であります。そう説明されると、成程とわかり易いと思います。
 しかし、この譬えだけでは神の義は説明しきれていません。そこにはイエス・キリストがいないからです。新しい神の義は、イエス・キリストの贖いによって初めて実現するのです。放蕩息子の譬より、さらに一段と神の痛みが伴うものです。アブラハムのイサク奉献の出来事を想い起こします。しかし神は御独子イエス・キリストを十字架にまでお渡しになり、人間の罪を贖う供え物、犠牲として下さったのです。そして、律法を守ることによっては決して義とされることのない私たち人間をキリストを信じることにより無償で義として下さるのです。これが新しい神の義です。
 まさにヨハネ福音書3章16節の御言葉通りです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。私たちも罪を悔い改め、この新しい神の義をうけて、イエス・キリストによる救いに与り、その愛に感謝し、御名をたたえる者になりたいと思います。

文:木下宣世牧師
西千葉教会花壇

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