西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「信仰を受け継ぎ、約束に与る」◇

2015年8月2日聖霊降臨節第11主日

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 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。 「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

ローマの信徒への手紙4の13−25


 本日はローマ書の4章後半の部分を与えられました。ここもアブラハムの信仰について語っているのですが、前半と後半に分けることができます。13節から16節までは神さまがアブラハムとその子孫に与えて下さった約束は律法ではなく信仰によって実現に与るものであり、従ってアブラハムは律法に頼る民つまり、ユダヤ人の父であるだけでなく、彼の信仰に従う者の父でもあるということを述べています。
 後半は18節〜22節でアブラハムの信仰がどのようなものであったかを語っています。そして23〜25節は結論、即ち私たちの信仰との関連性について述べられています。そして今日の箇所でカギになる言葉は「約束」と「信仰」と「希望」という三つの言葉です。
 今日の箇所に入る前のところでは「割礼」について述べられていました。ユダヤ人たちが神の民のしるしとして大切に考えていた割礼は、人間が神の前に義とされるために不可欠なのか、という問いに対し、アブラハムが義とされたのは彼が割礼を受ける前にその信仰によって義とされたのだとパウロは述べました。従って、割礼を受けていなくても、人は信仰によって義とされると主張したのです。そこでアブラハムは割礼を受けた者であっても受けていない者であっても共に信じる者たちの父であるとされました。
 今日のところではさらに、「律法」について語られます。アブラハムに与えられた約束は、律法を守ることによって実現に与ったのかそれとも信仰によったのか、と言うと、律法ではなく信仰によったのだと言うのです。
 14節では律法によって約束されたものを得ることができるのであれば信仰はいらなくなり、また約束は廃止されたことになると言われます。どうしてか。ここで言う「約束」は無条件に与えられる約束という意味があります。例えば「律法を守ったら」世界を受け継がせましょう、というような条件を伴う約束ではないのです。だから「律法を守らなければ」と言ったら、この約束は廃止されるのです。さらに15節に行くと、律法を守るといっても私たち人間は完全に守ることはできません。罪ある人間は必ず律法に反することを犯してしまいます。それは神の怒りを受けざるを得ません。(1章18節参照)
 そういうわけで神さまの約束である世界を受け継ぐのは律法によらず、信仰によるのです。
 16節の「恵みによって」とは私たち人間の側には何らの功績もなく、無条件で唯信仰によってユダヤ人も異邦人も確実に神さまの約束にあずかることができるという意味です。その意味でアブラハムはすべての人の信仰の父ということができるのです。
 17節は前半部分の結論でもあり、後半部分への導入ともいうことができます。つまり、アブラハムの信仰の内容が記されています。
「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたということです。
 18節以降の後半部分はアブラハムの信仰はどのようなものであったかを述べていると先に言いましたが、それは18節に述べられている通りです。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」る信仰でありました。
 具体的にはどういうことだったのでしょうか。創世記12の3,18の18,22の17等にアブラハムの子孫が全地に満つるだろうとの約束が与えられたことがくり返し述べられています。
 しかし、その時アブラハムは100歳、サラは90歳で二人共とても子どもを産める年齢ではありませんでした。口語訳聖書では「彼自身のからだが死んだ状態であり」となっています。原文はもっと強く「彼の体は死んでいた。」つまり、子どもを産む可能性はゼロということです。人間的には全く希望がもてない、絶望的な状態です。それでもアブラハムは信じたのです。絶望的な状況の中で希望を捨てませんでした。これがアブラハムの信仰でありました。また希望と言ってもいいでしょう。それは望みをつなぎ得る何らかの可能性の小さい芽のようなものをいうのではありません。そのようなものが何も存在しないのになお信じ続け、望み続ける希望です。この希望は絶望の対極にあるのではなく、絶望の只中にある希望です。それは神に対する真に正しいあり方です。それは人間の不可能性における神への全面信頼です。それこそ信仰であります。
 どうしてアブラハムはこのような信仰を持つことができたのでしょうか。それは神の約束だからです。神さまは約束されたことには忠実であられることを信じたからです。神には何でも出来ないことはないと確信したからです。神は死んだ体に命を与え、無から有をもたらす方であることを信じていたからです。そのような神への信頼は信じる神を賛美する信仰に成長します。(20節)これがアブラハムの信仰であり、アブラハムはこの信仰によって義とされたのです。

 このアブラハムの信仰はキリストを信じる信仰の予型であり先取りとなりました。なぜなら彼の信仰は死者に命を与える神を信じる信仰であったからです。
 私たちの信仰も23〜25節にあるように、キリストを死者の中からよみがえらせ給う神を信じる信仰であります。
 私たちは、神の前に誰1人として正しい者はいない、善なる者もいないのです。皆罪を負った者であり、そのままでは死の滅びに定められた者です。しかし、神さまは主イエス・キリストを十字架の死に渡され、私たちの罪を全てキリストに負わせて、私たちを義として下さいました。そしてキリストを死者の中から復活させ、私たちにも永遠に至る新しい命を無償で、一方的な恵みとして与えて下さったのです。
 私たちは唯感謝してこの救いを信じ、神をほめたたえたいと思います。

文:木下宣世牧師

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