西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「裏切ることのない希望」◇

2015年9月6日聖霊降臨節第16主日

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 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

ローマの信徒への手紙5の1−5


 キリスト者となった者の一番の幸いは何によっても取り去ることのできない希望が与えられているということだと思います。人間的な希望はしばしば私たちを裏切ることがあります。何故ならそういう希望はその人の持つ将来への願望に過ぎないからです。よく「希望がかなえられた」と言いますがそれは「願いがかなえられた」と言いかえても差しつかえがない。つまり希望イコール願いだからです。このような人間的な希望は私たち人間の内に根拠を持っています。だから人間の事情が変わればその希望も根拠をなくし、無に帰してしまうのです。
 しかし、キリスト者の希望は私たちを裏切りません。何故ならその根拠は人間ではなく神の側にあるからです。
 そのことを今日の聖書の箇所では「神との平和」であると言っています。これは神さまが与えて下さる恵みです。変わることのない恵みとして神との平和を与えられている。これに根拠を得て私たちは希望、神の栄光にあずかる希望を得ているのです。
 これは私たちにとって一番の喜びです。まことに誇らしい、誰かに伝えなくてはすまない、語らずにはいられない誇らしい喜びです。
 しかし、私たちには神との平和が与えられ、確かな希望が与えられていると言っても、それは私たちの人生に何の災いも、不安も心配も起こらないということではありません。私たちの信仰生活はこの世の現実の中で営まれるものです。何のうれいも悩みもないパラダイスにおけるような生活ではないのです。
 しかし、厳しいこの世の現実にもまれ、ほんろうされてもなお私たちの希望は揺らぎません。そのことが、今日の3節4節の御言葉の語るところです。今日はこの御言葉について述べたいと思いますが、その前に一言お断わりしておきたいことがあります。
 ここには有名な苦難→忍耐→練達→希望という連鎖が出てきますが、これは「患難汝を玉にす」という古い日本の諺の精神とは全く異るということです。人間は様々な困難に出会い、苦労して乗り越えることによって初めて一人前の立派な人物になっていくのだ。だから「若い時の苦労は買ってでもしなさい」という考え方です。勿論これにも一理ありますが今日の御言葉はそういうことを言っているのではありません。
 それではどう違うのでしょうか。まず「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」とあります。誇りとは喜びとも訳せる言葉です。しかし、それにしても不思議な言葉です。どうして苦難を誇ったり、喜んだりできるのでしょうか。パウロのような強い心を持っているからそうできるのでしょうか。だとしたら私たちのような弱い者はとても苦難を喜ぶことなどできません。その理由は、苦難は忍耐と練達を経て、最終的には希望を生むということを知っているからだというのです。結局神との平和を与えられている、神の栄光にあずかる希望がキリスト者の心を満たしているからではないでしょうか。キリスト者も躓いたり、転んだり、倒れたりする。しかし、そこは神との平和という地面に倒れたり、転んだりする。どんなことになっても神との平和という大地が私たちを支えてくれているのです。主イエスも「あなたがたには世で苦難がある」と言われました。しかし、その後で「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励ましておられるのです。だから苦難をもいとわないで、これを喜ぶことができるのです。
 「忍耐」を生むということですが、忍耐とは亀のように首をひっこめてひたすら我慢するということではありません。自分を押し流そうとする流れの中にしっかりと立ち続けるということです。そこでは当然まさつも衝突も起こるでしょう。しかしたじろがない、流れに逆らう、抵抗するという意味を含みます。使徒言行録5の41に「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」とあります。まさに忍耐して苦難に打ち克った者の姿です。さらに「練達」が出てきます。この語は苦しい修業を経て練達の士となるという一般的なイメージとはかなり違った意味の言葉です。ある方はテストという意味だと説明されました。英語には経験と訳すものがあり、ルターは証明(実証)という意味の言葉を当てています。そしてそれが希望を生むというのです。どうしてテスト、経験、証明等が希望を生むのでしょうか。私はハタと思い当たるふしがあったのです。8月に「証しと祈りの会」が行われました。大変心に残りました。何が一番感銘深かったかというと苦難に出会った人の証しでした。どなたも苦しみ悩むのです。もがき、苦しみます。必死に祈ります。そしてその苦難をやっと乗り越えるのです。するとどうでしょう。皆さんが苦しみの経験を通して神さまのご慈愛や恵みや導きに感謝されるのです。また周囲の人々の祈りに支えられたことを感謝されるのです。
彼らの経験、試練が神さまの助けや導きをリアルに感じ、そのことを証明するのです。これらの方々は明らかに苦難を経験することによって信仰を成長させました。そして増々与えられた希望を確かなものとして確信させられたのです。
 ここでパウロが語る苦難、忍耐、練達、希望とはこのようなことを言っているのではないでしょうか。この希望は決して失望に終わることなく、私たちを欺くことはありません。それは、神さまが私たち1人ひとりを愛して下さっていることを聖霊が私たちにはっきりと示して下さっているからです。

文:木下宣世牧師

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