西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「圧倒的な恵み」◇

2015年10月4日聖霊降臨節第20主日

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 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

ローマの信徒への手紙5の12〜21


 聖書という書物は神さまによる人間の救いを記したものであります。天地創造の物語から始まって、終末の時神の国の到来による救いの完成に至るまでの神さまの救いの御業が書かれているのであります。聖書の中味を読んでみると実に多彩であって、時には神さまの救いとは関係がないように思えるところもあります。しかし、聖書には人間の背骨のように神さまの救いの歴史が一本の筋のように貫き通っていると言うことができます。それを「救済史」と呼んでおります。
 今日の箇所はパウロによる救済史が描かれているところと見ることができます。非常に圧縮された形の救済史であります。その際パウロは二人の人を立て、この二人を対称させて人間の救いがどのようにしてもたらされたかを記しています。その2人とはアダムとキリスト・イエスであります。
 まず12節から14節まではアダムについての叙述です。言うまでもなくアダムは人類の始祖、聖書において初めて神に造られた人間です。そのアダムが創世記3章において禁断の木の実を食べるという罪を犯しました。それを食べると「神のようになれる」という誘惑に負けて、神さまの御言葉に背いたのです。このことをよく「原罪」と言いますが、アダム以来全ての人類は自己神格化そして神の御言葉への背反という罪に陥ったのです。
 「一人の人によって罪が世に入り」(12節)とありますが、以来このことが人間にとって最も大きな問題となり、また人間にとっての不幸の要因となったのであります。何故なら罪によってさらに死が入ってきたからです。この場合の「死」は単なる肉体の死ではありません。「罪の支払う報酬は死である」との御言葉通り、罪の結果としての死はその罪に対する神の審きであり、終末的滅びの徴です。それは人間を恐れや絶望そして虚無に陥れ、完全に人間を支配する恐るべき力を持っています。そして人類の歴史とはアダム以来この罪と死によって支配されてきた歴史なのだ、とパウロは言うのです。しかし、このアダムという一人の人から罪が始まり、神の審きと死がもたらされ、人間を支配するという図式はもう一人の人、きたるべき方を指し示すものであったとパウロは語ります。その方とは云うまでもなくキリストです。
 そして15節以降でこのアダムと対比させつつキリストの救いを述べるのであります。
 これまで人類の始祖アダム以来、連綿として続いてきた人間の罪の歴史、またその罪に対する審きによる死の支配の歴史がイエス・キリストの出現により、がらっと転換する。まるで世界をひっくり返すような仕方で変えてしまうというのです。ここからの文章は5章1節から11節までに見られるようなパウロの感情の高まりを感じさせられる熱気のこもった語り口となります。
 15節の最初の言葉「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」は以下全体の主題と言ってもよいでしょう。
 以下「一人の(アダム)罪によって〜とすれば」なおさら「一人の人イエス・キリストの恵みは」はるかに豊かで圧倒的に優れているという形を繰り返していきます。
 イエス・キリストの恵みとは具体的に言えば十字架の贖いの恵みです。アダム以来続いてきた罪と死が支配する力がいかに強力なように見えても、私たちは十字架の贖いによって義とされ、永遠の命を与えられるのです。
 私たちはルターの言葉を借りると「赦された罪人」です。私たちの信仰は弱く、この世にあってはなお罪を犯してしまう者です。しかし、私たちの確かさではなく、イエス・キリストを通して与えられた神の恵みの確かさによって、罪と死の支配から救い出され、神の愛とキリストの豊かな恵みによって生かされている者であることを信じて歩みたいと思います。

文:木下宣世牧師

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