西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「律法のはたらき」◇

2016年2月7日 降誕節第7主日

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 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

ローマの信徒への手紙 7章7節〜12節


 今日はこの箇所から「律法」というものについて学びたいと思います。
新約聖書において「律法」はどちらかというと悪者です。例えば福音書においては律法に厳しいファリサイ派の人々や律法学者たちは主イエスの批判者であり敵対者であります。彼らは律法を盾に取って主イエスの行動をことごとく非難攻撃し、逆に主イエスから彼らの表面的な律法主義を鋭く指摘され、やりこめられてしまいます。
 今、私たちが学んでいるローマ書始め、他のパウロ書簡においても人間の救いは律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によるのであると主張されています。そうすると律法は不要なものであり、むしろ人間を縛りつける有害なものだということになるのかということです。
 現に、今日の直前の箇所では、人が洗礼を受け、キリストに結ばれたなら、その人は律法に対しては死んだものとなり、律法から解放されたものであると述べられています。
 そうすると律法というものは私たちにとって何なのか、どんな意味があるのか、律法は罪であろうか、ということが問題になってくるのです。それに対してパウロは断じてそうではない、とただちに強く否定します。
 そして結論から先に言うと、12節にあるようにまず律法は聖なるものだというのです。「聖なるもの」とは汚れのない清らかなものという意味ではありません。それはこの世のものではないということ、つまり神のものであるということです。律法はこの世の法律とは全く違います。この世の法律や規則、ルールといったものは社会の秩序を保ち、維持していくために人間が考え出し、人間が決めたものです。旧約聖書の律法もそれと同じでイスラエル社会をおさめ、維持していくために定められたものと考えている人が多いのではないでしょうか。それは全くの誤解です。
 律法は神さまがイスラエルの民を選び、イスラエルを神の民とし、神の民として生きよと言ってイスラエルに与えてくださった御言葉です。人間が定めたものと同一視してはなりませんし、ただ人間の行動を規制する面倒なものと軽視することもできません。ですからイスラエルの人々は律法を大切にしたのです。申命記4の1にはこうあります。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」律法が神から与えられたものであり、その目的はイスラエルの民が命を得、生きるものとなるためであることがわかるのではないかと思います。
 律法がそのように神の教えであるならそれは「正しい」ものであると言わねばなりません。人間がその教えを忠実に守るに足る正しさ、また時代や状況によって変わることのない正しさを保持していることは言うまでもありません。ですから、申命記4の2には「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と記されています。
 さらに加えて律法は「善いものなのです」。 律法は善なるものだというのです。善なることとは神の善意であります。律法は神の恵み深い御心を示すものであるというのです。律法は本来人間を規則に縛りつけたり、苦しめたりするものではなく、逆に人を生き生きと生かし、喜びの生活を送らせるために神が与えてくださった御言葉だというのです。
 これが律法の本質です。ですから律法は断じて罪などではないと言うのです。ではこの律法の働きは何かというと善悪の基準を示し、鋭い稲妻の光のように罪の闇を照らし出す働きをします。問題は罪です。罪はこの律法を足がかりにして、人間を誘惑し、罪を犯させ、死に至らせるのです。例えば「むさぼり」と言う罪です。モーセの十戒の最後に「むさぼってはならない」という掟があるのですが、その掟がなければむさぼりの罪は起こらないと言うのです。罪は、むさぼってはならないという掟に乗じて人間を誘惑し、むさぼりの罪を犯させるのです。アダムとエバが蛇の誘惑に負けて禁断の木の実を食べ、罪を犯してしまった出来事はその良い例です。
 律法が悪いのではない、律法を機会として人間を誘惑する罪とその誘惑に負けて罪を犯してしまう人間が悪いのです。この罪の故に、またこの人間の弱さの故に、人は律法を守ることができず、従って律法の行いによっては救われなかった。だからイエス・キリストの十字架と復活の福音がどうしても必要だったのです。その福音によって、恵みによって救いが与えられたのです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と主イエスが言われた通りです。
 主イエスが律法において約束されたことを実現してくださった、そこに神の秘められた計画があり、その計画を主イエスが成就してくださったのです。

文:木下宣世牧師


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