西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「主イエスの弟子ではないか」◇

2016年03月06日 受難節第4主日

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 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ヨハネによる福音書 18章15節〜27節


 3月を迎えました。今月の27日(日)はイースターです。今日はもう受難節第4の日曜日となりました。そこで今日はこれまで読み進めてきたローマ書を離れ、ヨハネ福音書の受難物語からペトロの裏切りの話を読ませて頂きました。
 この話は4つの福音書が皆記している事柄です。4つの福音書が揃って記録している出来事はそう多くありません。むしろめずらしい事と言った方がよい程です。その中にこのペトロの裏切りの記事が含まれているということは、考えてみると大きな意味があると思います。
 何故なら、これらの福音書が書かれた初代教会の中でペトロは使徒として代表的な指導者でありました。また多くの人々がペトロを信仰の導き手として深く尊敬していました。そのペトロの犯した過ちを4つの福音書がこぞってあからさまに書き記したからです。それが聖書という書物の特徴です。どんなに権力を握っていても、どんなに名誉ある名を受けていても、人間を美化することは致しません。間違いは間違いとして、罪は罪としてかくすことなく書き表すのです。
 それでは今日の箇所を見てみましょう。ここは3つの段落から成っています。真ん中の段落をはさんで前後にペトロの裏切りの様子が描かれています。ヨハネによる福音書ではペトロともう1人の弟子が登場します。そのもう1人の弟子は大祭司の知り合いで、その人の案内でペトロは大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。しかしその門のところで門番をしていた女中から「あなたも、あの人(即ち主イエス)の弟子の1人ではありませんか」と聞かれて「違う」と答えたのです。
 後の段落でも同じ言葉で問答が繰り返されます。「弟子ではないか」。「違う」。そして3度目はペトロが主イエスの逮捕される時、刀をふるって片耳を切り落とした男の身内の人から、「あの時わたしはあの場で確かにあなたを見た」と言われたのですが、それをも否定しました。するとその時鶏が鳴いた、というのです。他の福音書のようにそれを聞いてペトロは激しく泣いたということは書かれてありませんが、こうしてペトロの裏切りを予告した主イエスの言葉は実現したということを明らかにしたのでしょう。
 この場面におけるヨハネ福音書の特徴はペトロが「あの人の弟子の1人ではないか」と問われていることです。他の福音書では「一緒にいた(主イエスと)」、「仲間」という言葉が用いられています。内容は同じことかも知れませんが、「弟子ではないか」という「弟子」に特別な意味が感じられるのです。それは単に「一緒にいた」だけではなく、又単なる「仲間」でもなく「弟子」なのです。
 ペトロは「主イエスの弟子の1人」であるどころか「主イエスの弟子の筆頭」であり「一番弟子」でした。いつも弟子たちの集団の先頭に立って、主イエスに最も身近なところにおりました。
 しかし、「弟子」とは何でしょうか。弟子は師匠あっての弟子です。弟子は師匠の教えを守り、師匠の言葉に従い、師匠を見習い、自分を師匠に預けます。ペトロも主イエスに対して「あなたのためなら命を捨てます」(13の38)と誓いましたがそれでこそ本当の弟子です。
 師の方もそのような弟子をかわいがり、時に厳しく鍛え、時にはかんで含んだようにやさしく教えます。責任をもって一人前に育てようとします。愛情をかけます。主イエスは弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」(13の1)ました。自分が逮捕された時も弟子たちを無事に逃がそうとされました。(18の8)また今日のところでも大祭司から「弟子のこと」を尋ねられました(18の19)が、弟子のことについては何もお答えになりませんでした。つまり自分1人が犠牲となり自分の弟子たちを助けようとなさったのです。
 その主イエスをペトロは裏切ったのです。自分を守るために弟子の1人ではないかと問われた時「違う」と言ったのです。自分の身を守るために発した「違う」という言葉はイエスを裏切る言葉であり、同時に自分の方から主イエスの弟子であることを下りると宣言する言葉でもありました。これは取り返しのつかない誤りでありました。その時は危害を加えられることをまぬがれたかも知れませんが、主イエスとのつながりを自分の手で断ち切ったからです。
  しかし、私たちの内誰がペトロを指弾したり、その弱さを笑ったりできるでしょうか。冒頭で4つの福音書が皆このペトロの失敗を記録したことには重要な意味があると言いました。それはここに記されていることは人間のありのままの姿だからであります。これはペトロだけの問題ではないのです。私たちもペトロと同じです。自分の身を守るためにすぐに誓いを破る弱さ、主イエスの御慈愛に応えられず、むしろこれを裏切る不真実、また自分から主イエスとのつながりを断とうとするような愚かさ、これらは皆私たち自身も持っている深い悩みです。ここに記されているペトロの姿は私たち人間のどうすることもできない罪の姿であります。
 ではどうすれば良いのでしょうか。ペトロにとっての救いは最後の晩餐の時、主イエスに足を洗って頂いたことにあります。あの時主イエスはペトロに「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(13の8)と言われました。ということは足を洗って頂いたことにより主イエスとペトロはつながっているということになります。ペトロは主イエスを裏切っても主イエスはペトロとかかわり続けて下さるのです。これは、これから赴こうとする主イエスの十字架の意味そのものではないでしょうか。最後の晩餐においてペトロの足を洗い、汚れ(よごれ)を清めて下さった主イエスの行為は私たちの罪を贖い、私たちを罪の汚れ(けがれ)から清めて下さる十字架の死の象徴であります。ここに私たちの希望があります。私たちの側には希望はありません。しかし、主イエスを通して私たちを罪の滅びから救って下さる神に希望があります。
 この希望に生かされて歩む者になりたいと思います。

文:木下宣世牧師


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