西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「「もう泣かなくてもよい」」◇

2016年3月27日 復活日/復活節第1主日

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 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

ヨハネによる福音書 20章11節〜18節


イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの復活の恵みが皆様の上に豊かにあるよう祈ります。                                
 今年のイースターは唯今お読みしました、マグダラのマリアと復活されたイエス様との出会いの場面から御言葉に耳を傾けたいと思います。
 十字架の上で亡くなられた主イエスのお身体はアリマタヤのヨセフとニコデモいう二人の人たちによって墓に葬られました。
 その翌々日の日曜日、マグダラのマリヤは朝早く主イエスの墓を見に出かけて行ったのですが、墓は空になっていて、そこにはもう主イエスのお体は見当たらなかったのです。彼女は急いでそのことをペトロともう一人の弟子に知らせました。彼らも走って行って墓をのぞいたのですが主イエスのお体を包んであった布がそこにあっただけで主イエスのお体はありませんでした。二人は家に帰って行ってしまったのですがマリアはあきらめ切れません。墓から離れられず、そこで泣いていました。
 主イエスには何人もの女性の弟子たちがいたようですが、その中でも最も代表的な存在であったのがマグダラのマリアでした。彼女はかつて七つの悪霊に悩まされていましたが主イエスによって助けて頂いた人で、その後は主イエスの身近にいて弟子として仕え、従い、十字架の時も埋葬の時も主イエスから離れることなく、最後まで見届けた人であります。この人程主イエスに恩義を感じ、深く敬慕していた人はいませんでした。それだけに主イエスを失ったことはマリアにとってかけがえのない人を取り去られることで、それは途方にくれるような悲しみの出来事でした。
 しかし主イエスが死なれたということは、彼女がつぶさに見届けたことで動かすことのできない事実です。その事実の前に彼女はどうすることもできず、唯さめざめと涙を流して泣くだけでした。
 これは死を前にした人間のありのままの姿ではないでしょうか。このヨハネ福音書11章にはラザロの復活のお話しがあります。そこにおいてもマルタとマリアの兄弟ラザロが死んだ時、皆が泣きました。人間は死の前には無力です。どうすることもできません。唯悲嘆にくれて泣くことしかできないのです。
 ところがマリアがかがんで墓の中を見るとそこに二人の天使が見えました。その天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねたのです。何か不思議な気のする質問です。何故なら悲しいからに決まっているからです。しかし、マリアの答えは「主が亡くなられて悲しいから」というものではありませんでした。「わたしの主が取りさられました。どこに置かれているかわかりません」という答えでした。
「どこに置かれているのか」という言葉は2節、13節、15節と3回も繰り返されています。この時のマリアの関心は主イエスの遺体がどこにあるか、ということに集中しているようです。彼女にとっては主イエスの遺体が目的であったと言ってもよい。15節では主イエスとは知らずに園丁だと思って「どこに置いたか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言っていることからもわかります。マリアは主イエスの死んだ体を引き取って自分の手元に置いておきたいのです。
 恐らく主イエスのお体に香油や没薬を塗って腐敗を防ぎ丁寧に葬りをしたい、そしていつまでもお守りしたいと考えていたのでしょう。その気持ちはよくわかります。人間として立派な行ないだと思います。しかし、どんなに丁寧にお体を清め、油を塗ってあげても、また新たな涙を誘うだけだと思います。
 ルカによる福音書では天使たちは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と墓を見に来たマリアたちに言っています。ここでマグダラのマリアが主イエスのお体を捜す姿は、まさに生きておられる方を死者の中に捜しているということなのではないでしょうか。これは全くの御門違いでありました。求める方向が全く違うのです。マリアの視線は墓の方ばかり向いていました。
 ルカ福音書の天使たちはさらにこう言いました。「あの方は、ここには(墓の中には)おられない。復活なさったのだ。」
 本当の救いはマリアの視線とは全く別の方角からやって来ました。復活のキリストが背後から「マリア」と呼びかけてくださったのです。自分が捜していた遺体ではなく、自分の名を呼んでくださる生きたキリストを見たのです。喜びのあまり「ラボニ(先生)」と呼んで走り寄りました。しかし、その時、復活の主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。
 難解なところですが、ある説教者がすがりつくというのは、しがみついて離さない、自分のものにする、ということは自分が主になることだと言っておられます。つまりそれはイエスさまのお体を自分が引き取る、と言ったことと通じることであって、そのことを主イエスは拒絶したのではないかと思います。
 そして、他の弟子たちにご自分が復活して天に帰るのだということを告げなさい、と命じられました。マリアはその通りに行って「わたしは主を見ました」と伝えました。ここでは「先生(ラボニ)」ではなく「主」と言っています。 私はここでマリアは主イエスの復活を信じたと思います。このあともうマグダラのマリアは登場しません。これが最後の言葉です。「わたしは主を見た」という言葉です。これは私は復活のキリストに出会った、という意味の言葉と言ってよいと思います。マグダラのマリアはこの告白によって神さまからその目の涙を完全にぬぐわれた、そしてもう泣かなくてもよいという言葉を与えられたのではないかと思います。

文:木下宣世牧師


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