西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「栄光にあずかる希望」◇

2016年5月1日 復活節第6主日

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 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

ローマの信徒への手紙 8章18節〜25節


 本日の聖書箇所には日頃私たちが目にすることのない言葉が出てまいります。例えば「被造物は虚無に服して」いるとか、「被造物がうめく」などという言葉です。被造物というと私たちは神さまが造られた大自然とか、水や空気、あるいは地球さらには宇宙などを思い浮かべますが、それらが虚無に服するとかうめくなどと考えたことはありません。少し違和感をおぼえる箇所なのではないかと思います。
 このような叙述のきっかけは冒頭の18節の言葉にあります。前の箇所で「わたしたちは神の子供である」と述べられていますが最後の17節には「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」と書かれています。著者はこの言葉を受けて「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると取るに足りない」と続けたわけです。
 キリスト者がこの世にあって信仰を貫いていこうとすると、必ず様々な苦しみに出会うと思います。この世は神を認めていない世界ですから価値観においても行動原理、考え方等皆違います。そこに様々な摩擦や衝突、対立が起こるのは目に見えています。そのことは皆さん自身が経験していることでしょう。
 しかし、その苦しみを担い、忍耐して信仰を貫くなら、将来与えられる栄光に比べ現在の苦しみは取るに足りないのだ、というのです。この場合の「現わされるはず」は必ず現わされることになっている神の定めたことであるという意味が含まれております。現在の苦しみは必ず将来の栄光につながっているということです。
 この「将来」とはいつのことでしょうか。それは終末の時ということです。つまり救いの完成する時のことです。19節以下はみなこの終末ということを前提として語られています。
西千葉教会花壇のジャスミン  私たちは救いということを人間の救いに限定して考えているのではないかと思います。しかし、ここでパウロは終末における救いは私たち人間だけではなく被造物全体に及ぶと考えています。19節の言葉も被造物も救いを切に待ち望んでいるということを言っているのです。創世記1〜2章の創造物語を見ると神さまはご自分が造られたものをご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と言われました。その時点では決して虚無に服してはいなかったのです。ところがアダムが神の命令にそむいて罪を犯した結果、大地は人間が汗を流して労働しなければ食物を得ることのできないものになってしまった。神の意志により虚無に服さなければならなくなったのです。
 しかし、実はそこに希望も残されました。
 それは、アダムの罪によって、人間が罪に支配され、罪の奴隷とされていましたが、イエス・キリストの十字架と復活により、罪から解放され、自由とされた。これは新しい創造の業です。イエス・キリストの救いの業により新しい人間が創造されたのです。それにより他の被造物も虚無と滅びの定めから解放されるのです。その救いを、求め、被造物が今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わってきたのです。
 そして23節からは被造物だけでなく霊の初穂を受けたわたしたち、即ち洗礼を受けたキリスト者であるわたしたちも「体の贖われること」をうめきながら待っているのです。体が贖われることとは、体が救われることと言ってもいい、体に内在する弱さ、汚れ、罪その結果としての滅びから贖い出されることであります。この世において体をとって生きる私たちは、どうしても罪を犯してしまいます。聖霊の働きにより少しずつ聖化されていっても完全に体が贖われることはできない。それは終末の時に初めて実現するものであります。これを「栄化」されると言います。
 これが私たちの希望です。この希望が与えられているから現在の苦しみに耐えられるのです。現在を生きることができるのです。これは現に今見ることのできない希望です。神さまが約束してくださっているからです。
 私たちの信仰はこの世限りのものではありません。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(Tコリ15:19)とパウロが言う通りです。「わたしたちは見えないものに目を注ぐ、見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Uコリ4:18)また「しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(Uペトロ3:13)これこそ私たちに真の希望と救いを与えてくれる御言葉であります。

文:木下宣世牧師

写真は教会の花壇に咲いたジャスミンの花


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