西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「「聖霊の執り成しによって」」◇

2016年5月15日 聖霊降臨節第1主日

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 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

ローマの信徒への手紙 8章26節〜30節


 本日はペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。皆様に聖霊の賜物が豊かに与えられるよう祈ります。
 例年ペンテコステには使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事を読んで、そこから説教することが多いのですが、今年はたまたまローマの信徒への手紙を読み進めて来たところ、丁度聖霊の働きについて記されている箇所に当たったので、このところからお話ししたいと思います。
 ローマの信徒への手紙8章はこの手紙のクライマックスだと言われています。特にこの次に学ぶであろう31節から39節までは特に有名で神の愛によって救われた者の救いの確かさが大きなスケールでうたわれています。しかし、本日お読みした箇所にも有名な言葉が出てきますし、今日のところは8章の最初から語られてきたことのしめくくりの言葉となっています。内容的には神の救いの計画が次々と実現して行き、聖霊の働きによってついに完成に至る様が描かれていると言うことができます。
 3章21節から信仰義認が語られます。5章では信仰によって義とされたということは、神さまと人間との間に和解が成立したことであるということが述べられます。6章ではイエスキリストを信じて洗礼を受けることによって、私たちは古い自分に死に、新しい人間に生まれ変わらされたのだということが記されています。そして7章の後半では、それでもなお、自分の体には罪の法則がつきまとっていて、神さまのみ心にかなう生き方をしたいと願ってもそれができず、かえってしてはならないことをしてしまう矛盾との葛藤の様が描かれています。
 しかし、8章に入ると、聖霊(神の霊)が私たちの内に宿り、その霊に従って歩むことによって、私たちは肉の支配を脱し、私たちの体も死から生へと変えられ、私たちは神の子とされ、アッバ父よと神を呼ぶことができるようにされたと語られるのです。
 そして、神の救いは人間のみではなく、全被造物に及び、いつか神の子たちの栄光に輝く自由にあずかる日がくる。その日をうめきつつ待っている。また、うめいているのは被造物だけでなく、洗礼を受けた自分たちも、体が贖われることをうめきながら待ち望んでいると言うのです。
 つまり、イエスさまの十字架と復活により救いのみ業は成就したのですが、実際の肉をとって歩むこの世の生活の中でなお私たちは罪を犯してしまうということなのです。そのために苦しみうめくのです。
 そこでパウロは聖霊の働きについて語り始めたのです。今日の最初のところでも「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」と言います。原文通りだと私たちの「弱さ」を助けてくださるという言葉です。この「助ける」という言葉は三つの部分からなっていて、「共に」と「代わって」と「担う」という三文字からできている言葉です。即ち聖霊は私たちと共にいて、私たちに代わって私たちの弱さを担ってくださるのです。
 さらに霊も、被造物や私たちと同じようにうめいているというのです。何で霊がうめくのか。それは言葉にならないうめきをもって私たちを執り成してくださるからなのです。「私たちはどう祈るべきか知りませんが」とあります。これは祈りの初心者のことを言っているのではありません。私たちはどん底に落ちた時、苦しみや悲しみがもっとも深い時、神さまが信じられなくなった時、つまり本当は祈りを一番必要としている時、祈れないことがあります。つまり、神さまの助けを最も必要としている時に逆に祈れないのです。或いは私たちは自分のことばかり祈って神さまが求めておられる、神さまのみ心にかなう正しい祈りができないこともあります。私は7章24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」というパウロの言葉は彼がどう祈ってよいかわからなくなっている状態で、そのときの彼のうめきだと思いました。しかし、聖霊は私たちと同じようになってうめきをもって執り成してくださるのです。執り成すとはどういうことでしょうか。他者のために赦しを乞うことです。そのためには体を張る覚悟がいります。「私にめんじて、赦してやってください。」と自分が相手の怒りの矢面に立たねばならない、それが執り成しです。イエス様の十字架も執り成しの行為と言えるでしょう。イエス様は命がけで私たちを神さまに執り成してくださったのです。
 そうすると神様は聖霊のとりなしの言葉をわかってくださるというのが27節の意味です。そして万事を益としてくださるのです。それが28節の意味です。この言葉は多くの人の愛誦聖句となっています。しかし、色々と困難や苦しみ、悩み、悲しみ等があったけれど最後はそれらをのり越えて幸いな状況になって感謝であるというような意味と受け取られていることが多いと思います。それは必ずしも間違いではありません。
 しかし「益」は「善い」という言葉です。そしてそれは「救い」を表わすユダヤ的表現だそうです。終末的な救いの成就という意味です。つまり神さまは、救いの御計画通り、神に選ばれ、神を愛する者たちをすべての事を通して救いに導かれるということを言っているのです。
 使徒言行録にはない聖霊の働きがここには記されています。聖霊の執り成しです。これも大切な聖霊の働きの一つです。私たちは何と祈ってよいかわからないような貧しい信仰者ですが、聖霊のそのような執り成しの働きにより、しっかりと守られ、救いに入れられているのです。そのことを信じて歩む者でありたいと思います。

文:木下宣世牧師


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