西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「神の愛に守られて」◇

2016年7月3日 聖霊降臨節第8主日

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 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

ローマの信徒への手紙 8章31節〜39節


 使徒パウロは人間の救いについて8章30節で「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」と述べています。ここには人間の側がなすべき業は何一つ述べられていません。神の律法を守る努力も、自己を高める修行も、神を知る知恵も悟りも要求されていません。全て神主導です。神が召し出し、神が義とし、神が私たちを栄光の姿に変えて下さるのです。
 そこで疑問や不安が湧いてきます。本当にそれでいいのだろうか。私の方は何もしなくてよいのか。ある程度は神さまに認めて頂くために良い行いをしたり、自分を清める努力をしたり、何かしら自助努力に励まなければ、あまりにも安易すぎるのではないか、との疑問です。そして、これで自分が本当に救われたのだろうかと不安さえ抱くようになるのです。
 しかし、考えてみて下さい。私たちに与えられる救いはそんなに安易なものでしょうか。神さまは、私たちの罪を赦し、私たちを義として下さるために、愛する御子イエス・キリストを惜しまず十字架の死に渡されたのです。これは神さまにとって激烈な痛みと苦しみを伴う決断ではなかったでしょうか。それは創世記22章における、息子イサクを神の命令により犠牲として献げようとした時のアブラハムの心境を思えば想像のつくことです。
 神さまはそこまでして、私たちを罪の滅びから助け出して下さったのです。それだけでなく、今現在は天上において神の右に座し、神の権能を受け継いでおられるキリスト・イエス御自身も私たちのために執り成してくださっているというのです。これ程確かで力強い助けがあるでしょうか。
 神さまが私たちを義とし、キリストが私たちのために執り成しをして下さる。これに対して対抗できる者はありません。私たちは自分の救いに確信を持ってよいのです。
 しかし、私たちが信仰生活を続けていくときに、私たちの信仰を揺さぶり、攻撃をしかけてくる敵対者もあります。これは外から襲ってきて私たちをキリストの愛から引き離そうとする勢力です。35節の「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」等です。」Uコリント11章23〜28(P338)にあるように、これらはパウロ自身が経験した迫害の苦しみの数々です。
 信仰に生きるということは、この世の生き方とは異なる価値観に生きるということです。私たちは神に救われ神の者とされました。ですから神の御心に従って生きようとします。そうするとそこにどうしても齟齬や摩擦が生じ時には衝突することもあるのです。
 36節でパウロは詩編44の23から「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」という言葉を引用していますが、パウロ自身まさにそのような状態を生きてきたのです。
 現在の私たちはそこまでの困難に出会うことはないかも知れませんが、この世に生きる信仰者としては本質的に変わるところはありません。
 しかし、パウロはこれらの様々な試練において、わたしたちを愛して下さるキリストによって輝かしい勝利を収めていますと言うのです。「輝かしい勝利」という言葉は口語訳聖書では「勝ち得て余りがある」と訳しています。普通に勝利するというのではないのです。大勝利、完勝ということでしょうか。
 パウロはそうだったかも知れないが私たちはとてもそうは行かないと思う人もいるでしょう。どんな迫害にも屈しないで信仰を貫く強さは自分にはないと思うのです。よくわかります。特に最後の「剣」は殉教を意味すると言われています。自分は殉教できるかと考えるとたじろぎ、恐れをおぼえるのではないでしょうか。
 しかし、ある説教者の説教集から教えられたのですが、この「輝かしい勝利」とは、私たちが勇気りんりんで迫害に立ち向かい、殉教の死もいとわず戦い抜いて勝利するということではありません。そうではなく、屠られる羊のような姿で死を迎えたとしても、その死が私たちをキリストの愛から引き離すことはできない。ご自身が神の小羊として十字架の上で屠られたキリストが、その死を通して私たちを救って下さった。そのキリストの愛によって私たちは勝利しているのだ、と言うのです。 
 さらに38節に行くと「わたしは確信しています」とさらに強調し、「死も命も、天使も、支配する者も・・・・・」と主として、目に見えない形で、人間の力を超えた天的な存在、時間を支配するもの、天や地下にいる魔物的力、そういうものもキリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと言うのです。これらは人間の力を超えた力を持ち、その力で人間を支配しているが、それらは皆神の造られた被造物であり、神の支配の下に服するものだからです。
 このようにして、パウロは私たちをキリストの愛、神の愛から引き離すものは何もないということを確信をもって主張しました。最初、信仰の確かさについて論じ始めたのですが、最後はキリストによって示された神の愛の強さ、確かさについて賛美、告白しています。救いの確かさは神の愛の確かさであり、神の救いの根拠は神の愛にあるということです。
 神はその独り子をお与えになられた程、私たちを愛しておられる。そのことを信じて、希望と確信をもって進みたいと思います。

文:木下宣世牧師


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