西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「神の憐れみにより」◇

2016年8月7日 聖霊降臨節第13主日

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 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」

ローマの信徒への手紙 9章19節〜29節


 前回から9章に入りました。ここから11章まではユダヤ民族の救いについて述べられています。本日の箇所に入る前に前回読んだ1節から18節までを振り返ってみたいと思います。
 パウロはイスラエルの民は確かに神さまから特別に選ばれて、他の民族にはない特権や恵みを与えられていることを認めています(4,5節)
 しかし、ユダヤ民族の一人として生まれたからといって、皆がそのまま神の民であるとは言えないと申します。(8節) つまり、神さまはさらにその中(ユダヤ人の中)から神の民として救いに与る者をお選びになると言うのです。
 ここで大切なカギになる言葉は12節の「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方(神)によって進められる」という言葉です。神さまは人を救う計画をはじめから立てておられ、その計画のままに全き自由をもってご自分の民を選びお召しになると言うのです。この自由は他の何者によっても制約を受けたり影響されたり致しません。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。」(15節)とある通りです。
 この言葉を読むと神の自由な選びというのは勝手気ままで気まぐれや思いつきで選ばれるような感じを持たれる方がいるかも知れません。しかし、勿論そうではありません。ここで神さまの全き自由とは神さまの主体性、何からも縛られることのない権限というような意味です。
 しかもこの自由な選びは唯「神の憐れみ」に起因します。(16節)この「神の憐れみによる」という言葉も大切な言葉で今日の箇所でさらに詳しく述べられます。
 そこで本日の箇所に入るわけですが、そのように人の救いが神さまの完全な自由による選びということであれば、人間は誰も神さまの前で手も足も出ないのだから、人間には何の責任も責められるところもないのではありませんか?という問いが出てまいります。特に前のところでエジプトの王ファラオについて「わたし(神)があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」と神さまが言われたとあります。だとするとファラオがイスラエルの民を苦しめたのも神さまの御名が高められるための神さまの御計画であったということになる。だったらファラオは唯神さまに利用されただけで、彼に罪はなく、神さまから責められるいわれはないはずですということになるわけです。
 私たちもよくこういう理屈を並べます。良い例はイスカリオテのユダに関してで、もしユダが裏切らなかったらイエスさまの十字架はなかった。そうしたら私たちの贖いによる救いもなかったはずだから、ユダの裏切りは必要だった、そもそもこれは神さまの御計画であったのだからユダに罪はないという論法です。
 しかし、それに対してパウロは一喝します。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」。あなたは自分が何者なのか知っているのか?ということです。よく「お前は自分を何様だと思っているのか」という言葉を聞きます。思い上がりを指摘する言葉です。それと似た言葉のように思います。
 「人よ」とパウロは呼びかけます。「あなたは人間でしょ。人間は神に造られた被造物でしょ。その被造物が創造者である神さまに口答えすることなどできるのですか?」と言うのです。
 それはまるで陶器師によって作られた陶器が何故自分をこのように作ったのかと文句を言っているようなものとたとえています。
 私たちはしばしば神さまを自分と同じレベルに引き下げたり、自分自身を神さまと同じ存在であるかのように思い違いをしてしまいます。そして自分の考えに合わないとまるで自分より少し年上のおじさんに口をきくかのように神さまに文句を言ったり、色々と注文したりするのです。神さまのことがよくわかっていないし、従って自分が何者であるかもわかっていないからです。
 しかし、パウロはここでただ「黙れ!」と言っているだけではありません。22節に行きますと、神はファラオのような「怒りの器」に対しても寛大な心で耐え忍んでくださる方であり、さらに「憐れみの器」として選ばれた者たちに、御自分の栄光を与えてくださるのだということを教えるのです。 そしてその憐れみの器を神さまはユダヤ人からだけでなく異邦人の中からも召し出してくださいました。(24節)それは預言者ホセアがすでに預言していたことでした。
 またイスラエルの中からも預言者イザヤが預言したように(27節)少数の残りの者を救いに導いてくださり、決してイスラエルの民を滅ぼすことはなさらないと言うのです。この憐れみがなければソドムやゴモラのように滅ぼし尽くされてしまうのです。
 ペトロの手紙(二)3章9節に「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」という御言葉があります。私は22節の「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」という言葉を読んだ時、このUペトロ3の9の言葉を思い起こしたのです。「神の忍耐」、この中にも神の憐れみが感じられます。神の怒りに触れ、神の裁きを受くべき者をも神は憐れみ、耐えに耐えてくださる。 ましてや憐れみの器として召された者に対する神さまの恵みはどんなに大きいことでしょうか。この憐れみによって救いを与えられた者として心から感謝し、この恵みを伝え、証しする者となりたい。
写真は教会花壇の「ルリマツリ」

文:木下宣世牧師


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