西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「心に信じ、口で告白す」◇

2016年9月4日 聖霊降臨節第17主日

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 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

ローマの信徒への手紙 10章5節〜13節


 9月を迎えました。教会は夏の歩みを終えて秋の歩みに入ります。かえりみますと今年の夏も豊かな恵みの内に一つ一つの集会・行事をすすめることができました。心から感謝したいと思います。そして与えられた恵みを糧として、大切な秋の諸行事に取り組みたいと願います。神さまの祝福と導きが与えられ、実りの秋に相応しい歩みができるよう祈る次第です。
 それではローマ書の学びに入りましょう。今日読んだ箇所の直前、10章4節でパウロは決定的に大切な事を記しました。「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために。」という言葉です。
 これは人類の歴史を変えてしまうような事柄を述べる言葉です。主イエスの出現によって、律法による義の時代は目標を達した。即ち律法による救いの時代は終わり、信仰による救いの時代が始まったということであります。
 今日の箇所はイエス・キリストの到来によって、私たちの救いはどうなっていくのかということを、さらに詳しく述べているところであると言ってよいでしょう。
 まずパウロは律法による義は「掟を守る人」に与えられることを旧約聖書レビ記18章5節において神がモーセに約束していることを認めます。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。」(レビ18の5)とある通りです。
 しかし、誰が掟と法を守ることができるでしょうか。パウロはこれまで律法を行うことによって義とされるためには律法全部を守らなければならない。しかし、律法を完全に守ることのできる人はいない。従って律法を行うことによって義とされることは不可能なのだということを述べてきたのであります。(3章10、12、20節参照)
 ところが申命記30章11〜14節を見ると、モーセはイスラエルの民に自分が与える戒めは届かぬ天の高みにあるようなものでも、海のかなたの遠く及ばぬところにあるようなものではない。ごく近くにあり、従って難しくて守れないようなものではない、ということを言っています。私たちには少々意外な言葉であり、パウロが言っていることと矛盾しているように思えます。
 しかし、パウロはこの言葉を捉え、これを全く自由な仕方で引用します。つまり、モーセは律法に関して述べているのに、パウロはこれを信仰による義についての言葉として述べるのです。
 信仰による義は「天に上る」ような困難なことではない。何故ならイエスさまは救い主として天から降って下さり、救いの業を実現して今は天に帰られたのだから。また、底なしの淵に下るような誰もできない困難なことではない。何故ならイエスさまは十字架の死を遂げ蔭府にまで下ってくださったのだから。つまりイエスさまが私たちにかわって私たちの罪を負い、贖いの死を遂げ、私たちを赦し義とし、復活して永遠の命を与えて下さったということを示唆(言わんと)しているのです。
 モーセは「御言葉」を律法の言葉という意味で用いているのですが、パウロは「御言葉」は「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」として述べているのです。
 旧約聖書の言葉をこれ程自由に、むしろ自分勝手に、自分に都合のいいように逆用して良いのかと思う程です。しかし、当時としてはこのような仕方が許されたようです。しかし私は、これはパウロの旧約聖書の新しい解釈ではないか、と思います。つまり、これこそキリストが律法の目標であることの表れであると言えるのではないかと思います。モーセが律法は達成困難、達成不可能なことではない、と言ったのはイエス・キリストの出現によってその通りになったのだと理解することが許されるのではないかと思うのです。
 さて、そういうことだとすると、私たちがなすことは何なのか ということが次に述べられています。それは、わたしたち、つまりパウロやその他の伝道者が宣べ伝えている信仰の言葉、(それはあなた方の近くにあり、もうあなたの口にあり心にある福音の言葉)を、信じ告白することであると言うのです。即ち「口でイエスは主であると公に言い表」すこと。これは最も短い、簡単な、しかし重要な信仰告白であります。そして聖霊の働きによってはじめて告白できる言葉です。(Tコリント12の3)
 そして心では主イエスの復活を信じること。これも使徒たちが「復活の証人」となって最も大切なこととして宣べ伝えた事柄であります。(Tコリント15の3〜4)この箇所はフィリピ2章6〜11節のキリスト賛歌、特に後半の9、11節を思い起こさせる言葉でありますが、これだけなのです。これだけでいいのです。「イエスは主であり、復活された」と信じ告白することだけです。
 ですから10節の言葉は洗礼を暗示しているのではないかと言われていますが、心で信じ、口で告白して洗礼を受けることによって救われるのです。あとはそのことを裏付ける言葉が次々と記されています。11節にはイザヤ書28の16の御言葉が引用され、旧約聖書においても主を信じることによって救われることが約束されていると述べられますし、13節には「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と約束されています。11節も13節も同じことを言っています。そして両方共「だれでも、だれも」と記しています。
 全て、主イエスが成し遂げて下さった、何も難しいことはない、ただその恵みを受け入れ、主を信じ、御名を賛美する者でありたいと願います。

文:木下宣世牧師


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