西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「聞いて信じる」◇

2016年10月2日 聖霊降臨節第21主日

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 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

ローマの信徒への手紙 10章14節〜21節


 ローマの信徒への手紙の9章から11章まではイスラエルの民の救いということが述べられていると言われていますが、今日お読みした箇所はまず信仰とはどういうものかということが語られ、次に何故イスラエルの民は福音を信じられなかったのかということが記されています。
 本日の箇所の直前13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と書かれていますが、今日の箇所はその言葉を足がかりとして書き始められます。即ち主の名を呼び求める者はだれでも救われると言うが、信じていない方を呼び求めることはできないでしょうと言うのです。そして聞いたことのない方を信じるということもあり得ないし、宣べ伝えられずに聞くことはできない、しかし、遣わされないで宣べ伝えることもあり得ないでしょう、と言うわけです。こういう言い方を連鎖方式と言うのだそうですが、要するに主の名を呼び求めることができるのは、神さまから遣わされた人が福音を宣べ伝え、それを聞いて信じることにより初めて可能になるのだということです。つまり派遣―>宣教―>聞くこと―>信仰―>救いというプロセスです。
 ある方が「福音とは運ばれる真理」であると言われた。信仰とはその運ばれ伝えられた福音を聞いて、信じ、その真理にあずかることであります。Tコリント15の1〜3にはパウロの「わたしがあなたがたに告げ知らせた福音」とか「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」という言葉が書かれています。そしてその内容はキリストの十字架と復活という出来事です。宣教とか伝道とはその出来事を伝えること、他者のところに運ぶことであり、その伝えられたことを聞いて信じる者に救いが与えられるのです。だから「良い知らせを伝える者の足は」美しいのであります。救いをもたらす良い知らせを伝える働きが美しいのであります。考えてみるとパウロ自身が、自分も伝えられた福音を携えて生涯伝道の旅を続けました。多くの町でユダヤ人にも異邦人にも福音を宣べ伝え教会を建て上げ、多くの人々を救いに導きました。そのためには数えきれない程の苦しみに遭いました。しかしその生涯は祝福された生涯であったと言わざるを得ません。この「美しい」という言葉は祝福されたものという意味であります。
 ところが、16節に行きますと、「すべての人が福音に従ったのではありません」と言われるのです。これはイスラエルの民のことを指しています。彼らが福音に従わなかったのは福音を聞いていなかったからか、それとも聞いても信じなかったのか?
 もちろん彼らは聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」ほどの大きな声、明確な言葉を聞いたのです。彼らは旧約聖書を日々読んでいました。ですからイザヤ書53章などは良くおぼえていたことでしょう。しかし、そこに記されている苦難の僕がイエス・キリストであることは全く信じることができませんでした。
 だとすれば、彼らは聞いたけれども、その伝えられた言葉が分からなかったのでしょうか。(19節)それに対する答えはまことに意外なものでありました。それは彼らが聞いても信じなかったのは、彼らが異邦人をねたんだり、怒ったりするようにと神さまがしむけるためであったというのです。何故ねたんだり怒ったりするのか?それは神を知らず神を尋ね求めなかった異邦人の方が先に神を信じ、神の救いにあずかる姿を見せられたからであると言うのです。
「ねたみを起こさせる」(19節)という言葉は意味があると思います。ねたみは愛の裏返しだからです。愛がなければねたみも起こりません。神さまはイスラエルの民にねたみを起こさせることによって自分のもとに帰ってくるのを待っておられるのではないでしょうか。
 21節の「わたしは、不従順で反抗する民(イスラエル)に一日中手を差し伸べた」という言葉はそのことを表しているように思います。神さまはイスラエルを見捨ててはおられません。忍耐強く手を差し伸べておられるのです。「放蕩息子」の父の姿を思い出します。彼は自分に背いて離れていった息子の帰るのを待った、そして帰って来ると喜んで赦し受け入れてくださったのです。これは私たちにとっても大きな慰めであり、希望であります。神さまの計り知れぬ愛に深い感謝を抱かざるを得ません。

文:木下宣世牧師


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