西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「復活の証人たち」◇

2016年11月6日 降誕前第7主日(永眠者記念礼拝)

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 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

テモテへの手紙二 4章6節〜8節


 本日は2016年度の永眠者記念礼拝の日を迎えました。多くの御遺族の方々をお迎えして共に永眠された方々を思い起こし、その信仰に学び、御遺族の皆様に神さまからの慰めが豊かにあるよう祈りたいと思います。
 さて唯今はテモテへの手紙U、4章6節から8節までをお読みしました。この手紙は1章1節から2節によりますと使徒パウロから彼の愛する子(弟子)テモテに宛てて書かれたとあります。そして今お読みした部分は死が迫っていることを感じたパウロが残した遺言と言うことができると思います。
 6節には「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています」とあります。この言葉は原文のギリシャ語では短く「わたしは既に注ぎ出されている」となっています。つまり、献げもののブドウ酒を注ぎ出すこと即ち殉教の血を流すということです。パウロは現在牢につながれているのですが(2の9)間もなく殉教の死を遂げるだろうことを覚悟しているのです。ですから「世を去る時が近づきました」というのです。
 しかし、「世を去る時」というのは「出発の時」とも訳せます。パウロにとっては死の時は世を去る時というより主の御許への出発であり、天の父の家への帰還の時という意味合いの方が強いのであります。ですからこの箇所には死を前にしての不安や恐れは感じられず、むしろ喜びが感じられるのではないかと思います。(その理由は8節に行くと明らかになります。)
 その前に7節ではパウロはこれまでの自分の歩みを振り返っています。それは「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜く」人生でした。ここには3つの動詞がありますが全て完了形で表されています。彼は伝道者として主から課せられた使命を果たし終えたという確信を抱いております。そのことに満足と感謝をおぼえています。誇っているのではないと思います。全力を尽くして戦った戦士や全速力で走り抜いたランナーのような達成感や安堵感、悔いのない感じが伝わってきます。「わが人生に悔いなし」という言葉がありますがパウロの生涯をかえりみれば、成程確かにそうだろうなと納得がいくのではないかと思います。
 そこで8節ではこれからの事が述べられるのですが、それは「かの日」には、つまり、終末・再臨の日に主から義の栄冠を与えられるということであります。ヨハネ黙示録2の10に「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を与えよう」との約束の言葉がある通りです。この「義の栄冠」というのは、パウロの義に対する報酬で永遠の命のことだと言われています。黙示録の方は「命の冠」とありますから、両者は同じことを指しているのだろうと思います。私自身はローマ8の30「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」が頭に浮かんできました。パウロも「栄光を与えられる」ことを「義の栄冠を受ける」と言ったのではないかと思いました。パウロが喜びと感謝をもって世を去ることができた理由はここにあると言えます。それは主の御許への出発であり、義の栄冠を頂き神の国において永遠の命に与ることだからです。
 これはパウロの残した遺言だと冒頭で申しましたが、実に立派な力強い遺言だと思います。あの偉大な伝道の働きをなし、強固な信仰を持って生涯を貫いたパウロでなければ語り得ない言葉です。
 それだけに立派すぎて、私たちには到底及ばない、縁遠い言葉のようにも写ります。しかし、最後の「わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」という言葉は非常に大切です。パウロだけでない、主の来臨を待ち望む人にはだれにでも義の栄冠が授けられると言うのです。ここに私たちの可能性がある。希望がある。私たちにも約束されているのです。義の栄冠が授けられるという確かな約束です。
 私はこの言葉に力づけられます。そしてこの言葉に納得がいくのです。本当にその通りだと思うのです。これまで私は多くの方々の葬儀を行ってきました。このリストには345名の方々の名が示されています。色々な人生があります。1人1人異なります。勿論パウロのような特別な存在の方はありません。しかし、これだけの多くの人々に共通するのは信仰を抱いて死んだということです。それは7節の「信仰を守り抜きました」ということと変わりありません。この点において皆さんがパウロと同じなのです。それだけで十分なのではないでしょうか。私たちが毎回の礼拝で唱えている信仰告白にも「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」とあります。義の冠はこの1点にかかっているのです。「ただキリストを信ずる信仰」があればそれでよいのです。
 「信仰を抱いて死んだ」(ヘブライ11の13)これらの方々は「かの日」には再臨の主の前によみがえらされ、その信仰により義の冠を与えられ永遠の命を受けて御国の世継ぎとされるのです。私は「復活の証人たち」という説教題をつけましたがまさにこれらの方々は復活の証人たちであります。
 今日は礼拝堂の壁いっぱいに永眠者のお写真が掲げられています。この方々は皆復活の証人です。今私たちはこんなに多くの証人に囲まれているのです。口語訳聖書へブル人への手紙12章1節の言葉のように「わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれている」のです。心強いことであります。勇気が湧いてくるように思います。このように多くの復活の証人に囲まれているのですから、迷わずに、確信をもって信仰を貫いて行きたいと思います。
 最後になりましたが、御遺族の皆様に神さまの慰めと導きが豊かに与えられるよう祈ります。

文:木下宣世牧師


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