西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「救い主にまみえるために」◇

2016年12月25日 クリスマス

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 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

マタイによる福音書 2章1節〜12節


 クリスマスおめでとうございます。救い主イエス・キリストが私たちのためにお生まれになった恵みと喜びが皆さま方の上に豊かにあるよう祈ります。今日お読みした御言葉は東方から来た占星術の学者たちが、長い旅の果てに生まれたばかりの幼な子イエスさまについにお会いすることができたという物語であります。
 彼らは自分たちの国で星を観測し占いをする占星術者でありました。「占い」というと何か非科学的ないかがわしい感じがしますが、当時としては彼らはいかがわしい魔術師などではなく、天文学者として尊敬されていた人たちです。その彼らがあるとき見たことのない星を発見しました。「東方で見た星」と書かれてありますが、最近の聖書学者たちの多くはこれを「登りゆく星」と訳した方がよいと言っているそうです。いずれにしても特別に現れた星で、これは、「ユダヤ人の王」つまり王なるメシアがお生まれになったしるしであるということで、彼らはその方を拝もうとして旅に出たのであります。
 しかし、どうして彼らはその星を見た時、ユダヤ人の王メシアが誕生したしるしだとわかったのでしょうか。彼らは東の方から来た異邦人です。その彼らがエルサレム目指して旅をしてきたのです。これは推測ですが、彼らはディアスポラの離散したユダヤ人たちからこの知識を得ていたのではないでしょうか。東の方とはペルシャやバビロニアもしくはアッスリアを指すと言われてきました。皆イスラエルにとっては征服者です。そしてイスラエルの民は被征服民族としてその地に引いていかれたり、もしくは移住させられたりしました。その地で共同体を形成し、聖書の教えを守って生活しました。今日残っている旧約聖書の有力な写本の1つにバビロニアで代々受け継がれてきたものがある程です。
 だからこの学者たちも聖書の存在を知っていたり、ユダヤ人の言い伝えを聞いていた可能性があります。そういうわけで彼らは新しく生まれた王メシアを拝むために旅に出たのであります。
 そしてやっとユダヤの都エルサレムに到着しました。しかし、これから先がわかりません。ユダヤの国のどこにお生まれになったのか、そこまでは知らされていませんでした。ですからヘロデ王のところに行って尋ねる以外に方法がなかったのです。このことが後に色々なわざわいを起こすもととなったのですが、彼らとしてはこうする以外に道はありませんでした。ヘロデは早速祭司長、律法学者たちを集めて、メシアはどこで生まれることになっているか尋ねると、彼らは「ベツレヘム」とミカ書5の1の御言葉を根拠にして答えました。ヘロデはあとでこの幼な子を殺害しようと思い学者たちに、ベツレヘムに行ってメシアに会い、帰りに寄ってその様子を知らせるようにと命じたのであります。
  そこで彼らはベツレヘムに行くことになりました。するとあの星が現れて彼らに先立って進み、イエスさまが生まれた場所に止まったのであります。ついに王なるメシアに会うことができる、そのピタッと止まった星を見た時、彼らはそう思って、喜びにあふれました。そしてひれ伏して拝みました。さらに携えてきた黄金、乳香、没薬をささげたのです。どれも貴重で高価な品々です。でも彼らは喜んでささげたと思います。それはメシアに出会ったことが彼らを喜びで満たしたからです。シメオンも幼な子イエスに出会ったとき「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2の29)と言いました。「もうこれで死んでもいい」と感じる程の喜びであったのです。これがクリスマスの喜びです。
 それは単なるこの世の幸せがもたらす喜びではありません。それは学者たちの旅を考えればわかることです。当時の旅は現代の旅行とは違います。現代の旅行は趣味であり楽しみですが当時は苦しみの連続でした。飢えと渇き、おいはぎ、強盗、獣の害、疲れ、そしてつねに緊張を強いられ、不安や恐れにさいなまれます。
 そんな苦労をしてまでどうしてこの学者たちは王なるメシアに会いたかったのでしょうか。単なる好奇心ではとても続きません。執念のようなものすら感じられます。
 恐らく彼らは星占いでは救われなかったのだと思います。星占いでは得ることのできない救いの喜び、そして平安を渇望していたのではないでしょうか。ですから命がけの旅であったと思います。そのような旅を続けてきた学者たちがついに探し求めた救い主に出会えた。その喜びがどんなに大きなものであったかと思います。クリスマスの喜びはこれに尽きます。
しかし私たちはこのような危険で困難な旅を導き、守って下さった神さまの御手があったことも忘れてはなりません。これは学者たちの勇気ある冒険物語また、その成功談ではありません。やはりそこに働き給う神の業を見きわめなければなりません。神さまがこの学者たちを危険から守り、困難を乗り越える知恵と力とを与えて、イエスさまのところに導いて下さったのです。
 そのように考えていくと私たちの人生もこの学者たちの旅と同じく、救い主にまみえるための旅なのではないかと思えてまいります。今日は6人の方が洗礼を受けられますが、今日までのこれらの方々の歩みもイエスさまにまみえる旅だったのではないでしょうか。そして今日ついに救い主にまみえることができたのです。まだ、洗礼を受けるに至っていない人は今旅の途中におられるのではないでしょうか。神さまがこれからの歩みを導いて下さって、いつかイエスさまに出会う日を来たらせて下さると思うのです。既に洗礼を受けた方はどうでしょうか。同じだと思います。洗礼を受けてからも色々な試練に出会います。困難も襲ってきます。しかし、そのような歩みの中に、イエスさまと出会う喜びを与えられます。洗礼の時だけではありません。そういうことをくり返し経験し、信仰を一層強められていくのです。私たちは誰もが皆救い主イエスさまに出会う旅をしているのです。祭司長や律法学者のようになってはいけません。彼らはベツレヘムに救い主がお生まれになると知りながら、出掛けることをしませんでした。私たちは今日から、また新しく救い主イエス・キリストに出会う旅に出発したいと思うのであります。そうすれば神さまはどんなに苦しい時もその旅を導いて下さり、救い主イエスさまと出会わせて下さると信じます。

文:木下宣世牧師


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