西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「神さまは植木職人」◇

2017年2月5日 降誕節第7主日

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 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

ローマの信徒への手紙 11章11節〜24節


 2月を迎えました。立春も過ぎましたが、まだ寒さは続きます。
この月も皆様の健康が守られ、日々の歩みが支えられるよう祈ります。また、年度末が近づいている教会の歩みも導かれるよう祈ります。
 さて、ローマの信徒への手紙の9章から11章はイスラエルの救いについて論じられている箇所ですが、今日はその11章の11節以下を読ませて頂きました。そろそろ結論に近づいてきております。
 前の箇所で神さまはイスラエルの民を退けられるのではなく、恵みによって選ばれた者を残す、と記されています。(11の5) 「残す」ということは残された者は一部の少数者と言うことになります。確かに当時の教会にもユダヤ人キリスト者は多数加わっていました。しかし、それはイスラエルの民全体から見ればやはり限られた一部の者にすぎず、多くのユダヤ人はキリストを信じようとしなかったのです。
 しかし、今日の所でパウロはユダヤ人全体の救いについて語ります。それは勿論今すぐではなく、神さまの救いの計画が完成する時、つまり終末の出来事としてユダヤ人全体の救いが成就すると信じています。またその事を望み見ています。その事を胸おどらせて夢みている様子です。
 まず、ここでも「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか」と問い掛けます。しかし、それは直ちに「決してそうではない」という強い否定の言葉でうち消し、彼の考えを述べ始めるのです。
 確かにユダヤ人たちは主イエスを信じないばかりか使徒たちの伝道を妨害し、キリスト者たちをユダヤ人社会から閉め出す等、キリスト教会に対し敵対していました。そのようにユダヤ人たちは主イエスにつまずいたけれども滅ぼされてしまうのではないというのです。むしろそのことが異邦人の救いにつながりました。イエス・キリストの福音は異邦人に伝えられ、異邦人を生かし、彼らに救いの喜びがもたらされたのです。結果として異邦世界と異邦人たちに神の恵みが豊かに与えられ、彼らは神さまからの救いの賜物という富に与る結果となりました。そしてそれはユダヤ人たちにねたみを起こさせるためであったと把えるのです。これは既に10章19節に出てきた言葉ですがパウロ独特の解釈です。(もっともこの箇所は申命記32章21節の引用ですからパウロのオリジナルとは言えないかも知れませんが、彼の発見した言葉と言ってよいと思います。)
そして、異邦人の救われた様子を見てねたみ、うらやんだユダヤ人たちが神さまに立ち帰り、キリストを信じ、救いに与るようになる、それは何とすばらしいことか、と夢見るのです。しかし、この言葉にはパウロが必ずその日が来ると信じる信仰がこめられており、単なる非現実的な夢を見ているのとは違っていると思います。
 13節から16節ではそのことを別の言葉で繰り返していると言ってよいでしょう。パウロは異邦人のための使徒と呼ばれ、そのことを光栄なことと思っています。ですから一所懸命異邦人に伝道し、彼らを救いに導きます。その伝道の業が進めば進む程、ユダヤ人たちのねたみは増すわけです。ですから、ユダヤ人たちから迫害されるため、異邦人伝道に励み、彼らを神との和解に導くなら、やがてユダヤ人が悔い改めて、神の民として再び受け入れられるということは死者の中からの命以外の何であろうかと言うのです。放蕩息子が父のもとに帰ってきた時、父は「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言いました。ユダヤ人たちが離反していたのに、立ち帰ってくるということは死んだ者が生き返ったようなものだというのです。さらに注解者の方々は、これはユダヤ人たちが復活の命に与って、完全な救いを与えられ、神の国の民となる終末的な出来事を画いていると解説しています。ここにもパウロの同胞たちの救いの姿に胸おどらせている様子がうかがえると思います。
 そして16節の「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖であれば枝もそうです」という御言葉は、神さまがアブラハムを選び、その子孫の繁栄を約束し、イスラエルを神の民としてくださったのだから、今もなおユダヤ人は神の民、つまり聖なる民なのだという意味です。9章4節に「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」とある通り、その事実は変わることがないということです。
 そして、次の17節以下は、「根が聖なるものであれば、枝もそうです」という比喩から派生した記述で、接ぎ木のたとえを用いて警告を与えている箇所です。17節の「ある枝」は不信のユダヤ人で「野生のオリーブ」は異邦人のことです。神さまはオリーブの木のある枝を不信仰の故に折り取り、代わりに野生のオリーブの枝をオリーブの木に接ぎ木しました。つまり神さまは不信のユダヤ人を切り取り、代わりに異邦人を救われてオリーブの木 即ちまことの神の民、あるいは教会に連らならせてくださいました。新しい神の民としてくださったのです。しかし、そのことを誇ったり、思い上がったりしてはなりません。神さまはユダヤ人を不信仰の故に切り取り、あなた方は信仰の故に接ぎ木されたのです。もし、傲慢になり信仰にとどまらないなら、容赦なく神はあなた方異邦人を切り取り、逆に切り取ったユダヤ人も信仰を取り戻すなら再び接ぎ木してくださいます、とそう言うのです。
 「不信仰」とは自分と自分のわざや業績に依存し、肉を信頼し、肉を誇ることであり、「信仰」は逆に自分のわざや業績に少しも頼らず、ただ神にのみ頼り、神の恵みの前に立つことであります。
 神さまは熟練した庭師のように全く自由に、枝を切り取ったり接ぎ木したりする方です。切り取る時は容赦しません。剪定の基準は信仰か不信仰かということです。信じる者はたとえ野生のオリーブであっても巧みに接ぎ木してくださいます。 まことに厳しく、また慈しみ深い方です。この方の恵みに対して人は感謝と恐れをもって自分自身を委ねるのです。私たち日本のキリスト者はいわば野生のオリーブの枝でした。私たちのうちには何ら救われる根拠はありません。ただ神さまのご慈愛によりキリストのみ体なる教会に接ぎ木された者です。それだけにただ恐れをもって、信仰の道に歩む他ありません。そのご慈愛に慣れてしまったり、甘えたりして傲慢になってはなりません。同時に神さまは峻厳な方です。オリーブの木から切り取られることのないよう、ひたすらヘリ下って恵みの内に歩む者でありたいと思います。

文:木下宣世牧師


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