西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「賜物の違いを生かして」◇

2017年3月5日 受難節第1主日

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 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

ローマの信徒への手紙 12章3節〜8節


 前回からキリスト者のこの世における具体的な生き方についてのパウロの教えに入りました。 そして12章1〜2節ではまず基本となる教えとして、私たち自身を神のものとして献げる献身の勧めがなされました。キリスト者は洗礼を受けて古い自分に死に、新しく生まれ変わらせられたのであるから、もうこの世の子ではなく神の子とされた者です。ですからそのように自分を神に献げなさいと言うのです。
 今日の箇所はもっと具体的に私たちの教会生活のあり方を教えている所です。ここでパウロはもう一度1節のように「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。」と呼びかけます。 「恵みによって言う」という表現は少しわかりにくいかも知れません。それは次に来る教えと関係しています。次に来る教えとは「自分を過大評価してはならない」と「慎み深く評価すべき」ということです。謙遜の教えと言ってよいと思いますが、どうしてまっさきにこのような教えが来るのでしょうか。
 このローマの信徒への手紙はコリントの町で書かれたと言われていますが、コリントの信徒への手紙Tを見るとコリントの教会では以下のような問題があったようです。 教会の中に神さまから何か賜物を頂いている人が、礼拝中にその賜物に酔って恍惚状態に陥ったり、熱狂的な態度をとったりするようなことが起こりました。そしてそれが賜物を頂いた者のしるしだと考え、そのような状態になることが、救いが成就した姿であると誇ったのです。異言を語ることなどもその一つでした。
 それに対して警告する意味で過大評価を戒めようとしたのです。それが恵みによって言う、という言葉になったのです。即ち神さまの賜物は恵みとして与えられるのですから、人間の側には誇るものは何もないのです。神さまから頂いた恵みの賜物を、あたかも自分のもって生まれた資質として自己評価してはならないということです。そもそも私たちが救われたこと自体が恵みです。パウロはダマスコ途上で迫害する主イエスと出会い回心し、救われました。また伝道者としての召命を受けました。これは神さまの一方的な恵みです。その恵みに立って今教えを述べているのです。
 私たちは神さまに救われるに価する何かを持ちあわせているわけではありません。また、神さまの前に功績を積んだわけでもありません。ただキリストを信じる信仰によって、恵みとして救いを与えられたのです。それが私たちの信仰です。その信仰に立つなら、決して自分を過大評価することはできません。その信仰の度合いに応じて慎み深く、感謝して、信じ受け入れて歩むのみであります。
 そのことを根拠づけるために4節で一つの体と多くの部分の関係でそれを説明します。これはまさにキリストの体である教会のことです。教会はキリストの体であり、私たちはその部分です。一つの体には沢山の部分があり、それぞれの部分が独自の働きをしています。一つとして同じ働きをしているところはありません。そして皆大切な働きです。どれ一つとして欠けてはならないのです。多くの部分の多種多様な働きがうまくかみあって一つの体が活動致します。
 教会も同じです。5節にあるように「わたしたちも数は多いが、皆キリストに結ばれて一つの体を形づくって」いるのです。皆それぞれに賜物を与えられています。それは尊い賜物です。神さまから与えられた恵みの賜物だから尊いのです。
 ではその尊い賜物をどう扱うのでしょうか。誇るのではありません。過大評価して満足するのでもありません。それを献げるのです。教会のため、神さまのため生かし用いるのです。6節後半から8節にかけて当時の教会にあった役職が幾つも出てきます。今となっては完全にはわかりません。「預言」は説教、「奉仕」は教会内の日常的な世話係、「教える」は教会の教育的働き、「勧める」は牧会的働き、「施し」は共同生活上の経済的働き、「指導」は家の教会の設置や組織面の働き、「慈善」は病者や弱者、また貧しい人の世話係といった役割と考えられています。皆異なる賜物ですが、皆誠心誠意全力を尽くして賜物を生かし用いなさいと勧められています。そのようにして教会を建て上げるよう勧められています。教会は異なる賜物を与えられた多くの人が、その賜物を生かして形成されていきます。
 結局パウロはここで、信仰をもって生きるということは、この世にキリストの体なる教会を打ち建てることを目指して、与えられた恵みの賜物を生かし献げなさいと勧めているのではないでしょうか。自分を慎み深く評価するのも、そのためであったのです。そうでないと教会を建てることはできず、むしろこわしてしまうことになるのです。
 各々の賜物を生かしあって、教会をまことのキリストの体に建て上げていきたいと思います。

文:木下宣世牧師


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