西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「十字架につけろとの叫び」◇

2017年4月2日 受難節第5主日

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 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

マルコによる福音書 15章1節〜20節


 いよいよ受難節が深まって来ました。次週は棕梠の主日、そして受難週です。この季節にあわせて今日は主イエスが十字架刑に定められる場面を読ませて頂きました。
 一読して何とも言えない気分になる所です。たった一人の全く無抵抗な主イエスを皆で寄ってたかって責め立てています。祭司長たちや長老、律法学者たちはなんとかして主イエスを死刑に処するためにピラトのところに引いて行き、その罪状を口々に言いたてます。主イエスはこれまで神の国の到来を告げ、人々を悔い改めに導き、病人をいやし、悪霊にとりつかれた人を救い出し、罪人と言われている人々に赦しと希望を与え、貧しい人々を助け、町々村々へ宣教の旅を続けて来られました。何の罪を犯して死刑に会わねばならなかったのでしょうか。
 ピラトは、それは「ねたみ」のためだと見抜いていました。主イエスが民衆の心を捕え、人々から信頼され、尊敬を受け、そのお話を聴くために押し寄せ、そのあとに従う様を見、逆に自分たちから人々が離れていくことに我慢できなかったのだろうと思います。憎らしいとも思ったでしょう。敵愾心も感じたでしょう。結局はイエスさまが邪魔になったのです。その存在がうとましくなったのです。この人がメシア救い主であるとは到底受け入れられませんでした。むしろ、その事が彼らの躓きの一番の原因となりました。その事を理由に彼らはついに主イエスを死に定めたのであります。
 その裁判の場に群衆も押しかけました。彼らは祭司長たちに扇動されていたと書かれています。そこでバラバを赦すか主イエスを赦すかピラトに尋ねられた時、彼らはこぞってバラバを釈放し、主イエスを十字架につけよと叫んだのです。付和雷同と言おうか、群集心理と言おうか、狂ったように叫び続けたのです。
 事柄の真偽を冷静に見分け、公平な裁きをなすべき裁判の場が異常な雰囲気にのまれ、すさまじい圧力がピラトを襲いました。権力者といえどもしょせん一人の弱い人間です。彼は最初意図していたことを貫くことができず、ついに群衆を恐れ、彼らを満足させるため主イエスを十字架につけることを許してしまったのです。
 主イエスを引き渡された兵士達が主イエスになした行為は醜悪そのものでした。人間は自分より弱い者に対しては過酷にふるまうものです。何をしても反撃を食うことがないとわかると実に残酷なことをします。人間の最も醜い姿です。ここでも兵士たちは主イエスに対してあしざまに侮辱の限りを尽くします。
 このように主イエスの周りにいる全ての者が主に敵対し、主イエスを十字架につけるために力を合わせているような姿をあらわしています。私たちは、この姿に嫌悪感をおぼえます。それは彼らの行為の中に自分自身の姿を見るからではないでしょうか。自分の中にも彼らと同じものがひそんでいることを感じるから心が痛むのではないかと思うのです。
 この箇所を読んで注目させられることが2つあります。1つは「ユダヤ人の王」という言葉が繰り返し出てくること、もう1つは主イエスの沈黙です。主イエスは嵐のような非難や怒号の中でピラトが不思議に思った程何も語られませんでした。普通裁判の場で自分に不利な訴えをされたら誰でもそれに反論することでしょう。しかもこの場合主イエスを陥れるために虚偽の証言がなされているのです。それに対して反駁するのは当然です。ですからピラトは驚きました。この沈黙は考えられない異常な沈黙でした。
 どうして主イエスは沈黙されたのでしょうか。加藤常昭先生の説教の中にここでは皆が主イエスを裁いている、ピラトも祭司長たちも、群集も兵士たちも主イエスを裁いている。そして神も主イエスを裁いておられると書かれてありました。その言葉を読んで気付かされました。主イエスは神の裁きの前に、これが神の裁きでもあるが故に黙されたのだということです。フィリピ2の8の「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」という言葉が浮かびました。主イエスの沈黙は父なる神の御心に対する従順の表れだったのです。イザヤ書53章7節にあるように主イエスは神さまの御心通り「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった」のです。
 また兵士たちにも「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(イザヤ50の6)のです。沈黙は時に雄弁に語ることがあります。主イエスのこの時の沈黙は主イエスの堅い決意を表明しています。御旨に従って十字架に赴き、そこで贖いの死を遂げるという決意であります。
 だからこそ聖書は主イエスこそ真のユダヤ人の王であると告げるのです。マタイ2章には東方から来た占星術の学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった」主イエスを拝みに来たとあります。主イエスの十字架には「ユダヤ人の王」と書かれた札がかかげられました。
 ここでは主イエスが「ユダヤ人の王」であると直接述べられてはいません。しかし、「お前がユダヤ人の王なのか」と問うピラトに対して主イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えておられる。これは原文では「あなたが言っている」の2文字です。聖書はピラトの口を通して暗にイエスさまは「ユダヤ人の王」と言わせているのではないでしょうか。
 また12節では「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者」とピラトは言っています。もちろんこれは祭司長たちがピラトに対して何とかして主イエスを死刑にするよう訴えるために用いた言葉です。しかし、彼ら自身が心ならずも主イエスは「ユダヤ人の王」即ち「神の子、救い主メシヤ」と言っていることになるわけです。
 聖書はこのようにして、人々の憎しみや悪意を一身に受け、たった1人で黙々と十字架に赴かれた主イエスこそ、私たちの救い主であると教えているのです。
 自分の醜い罪に心刺されつつも、このようにして私たちの罪を背負い、十字架への道を歩まれた主イエスに感謝したいと思います。

文:木下宣世牧師


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