西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「裁かず、受け入れよ」◇

2017年7月2日 聖霊降臨節第5主日

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 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

ローマの信徒への手紙 14章1節〜12節


 今日はローマ書14章に入りました。ここから15章の13節まではローマにある教会の具体的な問題についてパウロの教えが書かれています。今日のところでは信徒同士の人間関係(交わり)のあり方について述べられています。
 ローマ教会の中には信仰者として食物について非常に禁欲的な生き方をしている人がいました。一方、食物に関して自由に何でも食べてもよいし、それが信仰をそこなうことなどいっさいないと考える人々も多くいたのです。
 あるいは暦の問題もありました。ある人々は特別な日を定めて、その日を重んじ、その日を記念したり、何らかの宗教的行事をしたりしましたが、他方そのようなことに全くこだわりを持たぬ生活をしている人々もいたのです。そしてそのような人々の間に次第にそごが生じてまいりました。
 食物に関しても暦に関しても、自由にこだわりなく食したり考えたりする人々は、そのようなことにこだわる人たちを「信仰の弱い人」と言って軽蔑したり、疎外したりしました。逆に禁欲的な生き方をしている人々は、自由な生き方をしている人々を不真面目で不謹慎であると言って裁いていたのです。
 それに対してパウロは「信仰の弱い人」を受け入れなさい、それだけでなくその考えを批判してもいけないと教えたのです。さらに彼らを軽蔑してもいけないと禁じました。その理由は「神はこのような人をも受け入れられたからです」と言いました。神さまが受け入れておられるのに、あなた方はその人々を受け入れないとはどういうことかと問うのです。それは神さまの御心に反することになるのではないか、ということです。
 逆に食べない人の方も食べる人を裁いてはいけないと命じます。その理由は、それは他の家の召し使いのしていることをあれこれ非難していることと同じだからだと言うのです。それはその家の主人がすることでしょうというのです。その家の主人とは神さまのことです。つまり彼らは神の家の者たちなのですよ、ということです。暦についても同じです。日にこだわる人もこだわらない人も、それぞれの確信に基づいて決めればよいと言うのです。それはどうしてかというと、それぞれが「主のため」と思ってそれを行っているからです。そして皆そのことを神に感謝している。誰がそれを軽蔑したり、裁いたりすることができようかということです。
 しかし、話はこれで終わりません。むしろここからパウロの心は高揚していきます。即ち有名な8節の御言葉「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」を中心に7節から9節を述べるのです。
 これはすごい言葉です。7節で「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」と言われると思わず「えーっ、そうかな」と思ってしまいます。まず自分自身のことを考えても本当にそうかなと正直思ってしまいます。完全に自分のためだけに生きているとは思わないけれど、かと言ってかなりの部分自分のために生きているのではないかと疑問に思ってしまうのです。
 しかし、これは結局キリスト者の本質を述べている文章であり、それは後の方、つまり9節から逆にさかのぼって読んでいくといいのではないかと気付かされました。9節の言葉はキリストの十字架の死と復活について述べています。キリストの十字架における贖いの死と復活よって私たちは罪の滅びから救われ、キリストは死んだ人にも生きている人にも救い主となってくださった。私たちはキリストの者、主の者とされたのです。だから「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。わたしたちが主の者であるなら「生きるのも主のため、死ぬのも主のため」ということになります。それは即ち7節に戻って「だれ一人自分のために生き、また死ぬ人はない」ということになるのです。
 つまり、私たちが信仰深いからではなく、立派だからでもない。唯主イエスが私たちのために死なれ、そして復活されたことに確かさがあるのです。もし私たちが自分自身の未熟さや至らなさの故に主の者とされ主のために生き、死ぬことを否定するなら、それはキリストの死と復活を否定することになってしまうのです。
 そういうわけで私たちキリスト者が皆主の者であり、主のために感謝して具体的な信仰生活を営んでいるなら、その生き方を軽蔑したり、裁いたりすることはできないはずです。従って互いに受け入れなさいという教えに帰着するのです。
 ですから、この教えはヒューマニズムから出たものではありません。人間の善意・親切心・思いやり・同情によるものではありません。主イエスさまの救いの御業、そしてそこに表された神さまの御慈愛によるものです。互いに主の者とされたその恵みによって一つとされるのです。

文:木下宣世牧師


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