西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「旅路の終り近くに」◇

2017年9月10日 聖霊降臨節第15主日

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 あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。

申命記 26章5節〜11節


 本日は2017年度の高齢感謝礼拝をささげることができ感謝します。75歳以上の方々にご案内を差し上げましたが、日頃なかなか出席できない方もおいで下さり、共に長寿を祝い、これまでの神さまの恵みと導きに感謝する時を与えられ、心から喜んでおります。
 皆様が神さまの祝福を受け、これからも変わらぬ恵みを受けて、霊肉共に守られて過ごされるよう祈ります。
 さて、長寿であるということは確かにおめでたいことであり、皆さんからお祝いされるのは当然なことだと思います。しかし、長寿であるということはつらい面もあります。長寿は老いるということでもあるからです。老いていけば肉体的には衰えますし、精神作用も減退していきます。交友関係も狭まり、生きる世界も狭くなります。老化との戦いはつらく厳しいものだと思います。
 年を重ねて高齢となるということはおめでたいことでもあり、同時に厳しいことでもあるとすると、私たちキリスト者にとって年をとるということはどういう意味があるのでしょうか。
 コリントの信徒への手紙(二)4章16節にこういう言葉があります。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」。
 これは私たちに大切なヒントを与えてくれる言葉だと思います。外なる人、即ち肉体は年と共に衰えていく。しかし内なる人は日々新たにされるというのです。「内なる人」とは「信仰によって生かされている自分」といったらよいでしょうか。単純に「信仰」と言ってもよいと思います。つまり私たちは肉体的には衰えていくが、長く生かされれば生かされる程ますます信仰が新たにされていくということです。
 今日は申命記の言葉を読みました。旧約聖書の申命記という書物は出エジプトをして40年の旅路を歩んできたイスラエルの民が、もうすぐ約束の地カナンに入ろうとする直前にモーセから与えられた言葉を記したものです。それは同時にもうすぐ死を迎えようとしているモーセの遺書と言ってもよい言葉であります。
 ここでモーセはイスラエルの民が約束の地カナンに入ったら、その地で実ったものの初物を祭司のところへ持っていって神さまにおささげして、こう告白しなさいと教えました。
 それは「自分たちの父祖はかつてアラム地方(ユーフラテス川上流)からカナンの地に導き出された者であった。しかし、飢饉のためにエジプトに移住しそこに寄留し、段々と数が増えていった。そのためエジプト人たちは自分たちを圧迫し、奴隷のごとく酷使した。そこで苦しみのあまり主なる神に叫び声をあげ、助けを求めると、神は私たちをエジプトから脱出させ、この豊かな約束の地カナンに導き入れて下さった。今、この地で穫れた実りの初物を感謝してささげます。」という内容でありました。
 非常に圧縮した形で神さまがイスラエルの民を選び導いて下さった歴史を感謝をもって告白しています。先祖ヤコブがエジプトに寄留した時は70人だったが、エジプトを脱出した時は60万人だったと出エジプト記には記されています。そして出エジプトして40年間の旅を導いて、とうとう乳と蜜の流れる約束の地に到達させてくださいました。
 こういう告白は旅の終りが目に見えてきた時、又モーセ自身も自分が120歳になり、この世での使命を終えようとする時でなければ出てきません。この40年間色々なことがありました。エジプト王ファラオのもとから脱出するまでの苦労、エジプト軍の追撃を受け、葦の海の奇跡により救われたこと、自分がホレブの山に登り十戒の石の板を受けている間に、イスラエルの民が金の子牛を作って拝み狂っていたこと、食べ物がなくなりマナが与えられたこと、水が尽きてかわいた時岩から水がほとばしり出たこと、他国を通るときの他国の妨害と戦い等々。その渦中にあった時は、夢中で取り組んでいてかえりみる余裕はありません。旅の終わり近くになって、あるいは晩年になって、今だから語れるのです。これまで色々なことがあった。わざわいもあり、苦労も悲しみも味わったけれども今この時点に立って過ぎ越し方をかえりみた時に、やはり神さまは見ていて下さった、聞いていて下さった、生きて働いて下さったということがわかるのです。これは人生経験を経た年長の人にしてはじめて語れることです。
 これがキリスト者にとって長寿の意味であり、高齢者に与えられた恵みであります。これによって外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされるのであります。
 このことに気づかせて頂いたのは8月の証しと祈りの会でした。「橄欖の枝」9月号にも書いた通りです。皆さん色々な道を通ってこられた。また、様々な大変なことにであわれた。しかし、今となってみればそのような中を神さまが守り導いて下さったと証ししておられます。そのことに励まされ、教えられたのです。これは年をとった者にしかできないことです。だから年長者の使命と言ってもよいでしょう。
これは年長者に与えられた恵みであり、また使命です。この恵みと使命に生きる者となりたいと思います。

文:木下宣世牧師


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