西千葉教会 日本キリスト教団 西千葉教会


◇「私のために祈ってください」◇

2017年10月1日 聖霊降臨節第18主日

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 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

ローマの信徒への手紙 15章30節〜33節


 これまで皆さんと共にローマの信徒への手紙を読み進めてきましたがいよいよ今日のところを終えると残るは最後の16章だけとなりました。この手紙を読んできて受ける印象の一つはガラテヤの信徒への手紙と比べるとはっきりわかるのですが、語り口がおだやかであるということです。戦闘書簡と呼ばれたガラテヤ書のような激しい、攻撃的な言葉は余りありません。もちろんパウロの熱意が感じられるところは幾らもありますが、全体的に平静な語調で述べられていると思います。
 その理由は信仰義認という彼の福音理解が組織的に語られていること、そしてローマの教会は未知の教会であり、まだ会ったことのない人々に当てて書かれているからではないか、と思います。
 しかし、パウロの平静な叙述の仕方の背景には様々な困難や激しい葛藤また敵対者との戦いがあったことも事実であります。
 今日のところでパウロがローマ教会の信徒たちに「わたしのために祈ってください」と願っていることからも推察することができます。まだ未知の人々にさえ祈って欲しいと願わざるを得ない事情をパウロは抱えていたのです。
 それでは、その事情とは何で、何について祈って欲しかったのでしょうか。前に記されていたように、パウロはローマ教会を訪れる前にエルサレムに行ってマケドニア州とアカイア州の諸教会からの献金をエルサレム教会の人々に手渡すことにしていました。
 それに際してまず第一にユダヤにいる不信の者から守られるように祈って欲しかったのです。実際パウロのエルサレム行きには大変な危険が伴ったのです。元々パウロはキリスト教に対する熱心な迫害者でした。それがある時180度転換してイエス・キリストを宣べ伝える者に変えられたのです。ですからユダヤ教徒たちから見れば裏切り者です。彼らは憎しみのあまり彼を殺そうとねらっていました。事実後にパウロがエルサレムで捕らえられ、ローマ軍に保護された時、パウロの命を取るまでは飲食しないという誓いをたてパウロの命をつけねらった者が40人以上もいたと使徒言行録23の12,13に記されています。また、パウロの周囲の人達も危険を察知してエルサレムに行かぬよう懇願したのです。しかし、そういう中でパウロはたとえ殺されるようなことがあってもエルサレムに行くと言って彼らを振り切るようにしてエルサレムに向かったのです。
(使徒20,21章)パウロにとってはエルサレムに行くということがそれ程に重要であったからです。
 そして実際に彼はエルサレムで捕らえられ、死にそうな目に会い、囚人としてローマへ護送されました。ですから彼の当初からの計画は実現しなかったのです。それ程の危険な旅を前にして彼は自分のために祈るよう求めざるを得ませんでした。
 第2には「エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに歓迎される」ために祈って欲しかったのです。これはパウロが携えていった献金を快くエルサレムの教会が受け取ってくれるようにという事です。献金をしてくれるのだったら当然ありがたく頂戴してくれるかというと、そうでもなかったのです。エルサレム教会のなかにはいまだに異邦人キリスト者に対する偏見を持つ人々がいました。彼らはマケドニアやアカイアの異邦人キリスト者から献金を受け取ることをいさぎよしとしなかったのです。それがパウロの憂慮した点でした。
 逆に言えば彼らが喜んで受け取ってくれれば、それはエルサレム教会が異邦人キリスト者とその教会をも受け入れているということになります。そして両者の間に主にある交わりが結ばれるのです。それはまたパウロの異邦人伝道という宣教活動にも賛同してくれている徴となります。パウロにとってこれ程の大きな喜びはなかったでしょう。
 さらに第3には「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」祈ることでした。エルサレム教会を訪れ、ささげものを手渡すということはそれ程危険で命懸けの旅であり、また命は守られてもエルサレム教会とのやり取りはそれ程気骨の折れる事柄でありました。ですから第1と第2の祈りが適ったあかつきには晴々とした気持ちで喜びに満たされてローマに行くことができたでしょう。そしてローマ教会の信徒たちの歓迎を受け、交わりを持ち、真の安らぎを得ることができたでしょう。
 パウロは以上の事柄について祈ってくださいとお願いしました。これから自分の行おうとする事を考えるとどうしても祈ってもらわなければ一歩も前に進めないと思ったのです。「お願いします」とありますが、これはできれば祈って欲しいというような弱い願いではなく、むしろ勧告の意味が強いと言われています。12章1節の「兄弟たち、神の憐れみによって勧めます」という言葉の響きに近く、少し儀式的な言葉遣いのニュアンスが含まれているのです。あなたがたに是非祈って欲しい、否祈ってくれるのだという気持なのだと思います。そして、その根拠はわたしたちの主イエス・キリストと霊が与えてくれる愛、この2つだと言うのです。わたしたち共通の主イエス・キリストの故に、わたしたちは1人の主を信じ、その主にあっては一つだからその故に祈って欲しい、また「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(13の8)とあるように、愛の負債だけは許されるわけですから、その愛によって願うというのです。
 そして「わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」と願います。この熱心に祈るという言葉には「戦う」という意味があるそうです。ここでパウロが求めているのは祈りによる戦いです。ゲッセマネの祈りのように、またヤボクの渡しで一晩中神と格闘したヤコブの祈りのように力をこめた、熱心で激しい祈りです。
 パウロが直面した難局を切り拓くのはこの祈り意外になかったのです。何故なら、人間の知恵や力ではパウロの使命を全うすることはできないからです。ここは神さまに働いていただく他ない。神さまに戦っていただく他なかったのです。
 これは今日の私たちにも当てはまることではないでしょうか。今の世界情勢や日本の政治情況において祈らざるを得ません。
 また私たちの教会、日本の教会が直面している問題についてもまず熱心な祈りが必要ではないかと思います。そのことを通してまことに「平和の源なる神があなたがた一同と共におられ」、人知をはるかに越えた平和を与えてくださると信じる次第であります。

文:木下宣世牧師


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